飛翔

日々の随想です

青柳瑞穂の生涯

阿佐ヶ谷の青柳瑞穂邸の引き戸をひくと鶏をぶらさげた太宰治が立っていて、
井伏鱒二堀口大學亀井勝一郎、外村繁、火野葦平木山捷平小田嶽夫らが顔をそろえている。



戦前この阿佐ヶ谷界隈に住む文士らのたまり場を「阿佐ヶ谷会」と称し、戦後は青柳瑞穂の家がその集いの場になった。

阿佐ヶ谷会の文士達の知られざる素顔、生き様を本書から知ることができて貴重な記録でもあった。



さて、本論に入ろう。
青柳瑞穂とは詩人、フランス文学者、骨董蒐集家である。

そして相当な美食家。
その美食も吝嗇に通じていて食べ物にお金をかけることを妻に許さなかった。
「限られた費用で最大限においしいものを作ってこそ値打ちがある」という。


これはその骨董蒐集にも同じ理論を持つ。
一流の古道具屋で買うのでなく、名もない古道具屋や田舎の蔵などから自分の目で掘り出した安いものにこそ価値があるとし、それを実行。
光琳の唯一の肖像画を掘り出し、尾形乾山の「色絵桔梗皿」を発見。
農家で平安時代の壷を見つけだし、民家からは14世紀の能面の初期の作品を見つけだした。


妻の兄が建てた家に住み、送金してもらいながら骨董品を買い集める。
資金繰りの為、仕方なくフランス語の翻訳、講師などをし、妻には質屋通いをさせ、美食を欲しいままにした。
家計のやりくりに疲れ追いつめられた妻は青酸カリを飲んで自殺。


妻の死にショックを受け酒を浴びるほど飲んだ瑞穂は、あげくのはて、飲み屋の女将を後妻にするのだから放蕩者もここまでくれば横綱級だろう。
最初の妻には、質屋通いをさせ、骨董品の掘り出し物を続々と購入。
これらの掘り出し物についての随筆「ささやかな日本発掘」は新潮社から出たが、
この随筆の高雅な筆致を佐藤春夫がたいそう愛し、

「内容は充実して幽情横溢、余情長く、文品は高雅に清澄。この一小文を以て文学史に永く彼の名を留めるに足る名作である」<<



と絶賛された。
そして後に第十二回読売文学賞の評論・伝記部門を受賞。


この受賞作品は全て亡くなった妻の実家が舞台である。
またその鑑識眼と美意識の高さを買われて「芸術新潮」に骨董随筆を寄稿し阿佐ヶ谷文士特有の筆致が評判を呼んだ。

骨董蒐集で成功し、典雅な文を高く評価されたことが瑞穂の生活を堕落させ、フランス文学訳書に評価がなかった為、仕事を小さくさせてしまったことは皮肉なことだ。

妻が自殺したことから、一人息子は父瑞穂を決して許そうとしなかった。
骨董蒐集品は瑞穂亡き後は全て飲み屋の女将であった後妻のものになり、生前得た莫大な骨董売却費用は生前から後妻名義のマンションションとなっていた。

家庭よりも仕事よりも骨董を愛した瑞穂は没し、集めた骨董品は後妻に遺された。

骨董品、陶器類はやがて壊れ朽ちていき、散逸し、瑞穂の名も忘れ去られていくだろう。
しかし、骨董は滅びても瑞穂の遺伝子は遺り続ける。


本書の評伝を書いた著者は孫。
瑞穂を生涯許さなかった一人息子の子供。


孫,青柳いずみこさんはピアニストでありドビュッシー研究家、著述家でもある。
瑞穂はかつて「文学と同じくらいに音楽にもこころひかれ、ドビュッシーラヴェルの楽譜を蒐集していた」というから遺伝子の神秘である。


瑞穂にとって、楽譜もフランス文学原書も骨董も読み解くべき美の秘密を有した「テクスト」であり、テクストが秘めやかに語りかける「ほのかな美」の中にわけいることだったのだろう。
死して遺ったのは骨董でなく、かくも素晴らしい評伝を著した遺伝子だったとは神もあざとい!
高雅な名文を書き、エゴと真贋のあわいに生きた希有な男の生涯であった。