飛翔

日々の随想です

涼風

okkoya2009-07-28


 寝室の東側の植え込みには銀もくせいが植わっている。銀木犀は金モクセイよりも香りがおだやかでつつましい。
慎ましいものは地味で控えめであるけれど、奥ゆかしい美がかくれているものだ。
母はそんな慎ましい人だった。
いつも大島紬の着物を着ていた。地味な大島の美しさは子供の私には分からなかった。ほかの子のお母さんのように華やかな服を着て花のようでいてほしかった。そんな私に母はこう言うのだった。
「大島の着物はね、普段着のよそゆきね」といって笑った。
「大島の魅力は決してでしゃばらないのに、秘めた美があるのよ。分かる人にだけわかる美しさかしら」「着れば着るほど肌になじんで、味がでてくるのよ」と言った。
「へー」と聞いていた私だけれど、なんとなくそこに母の矜持をみる思いだった。
それは普段着に格のあるものを着るという「粋」に通じている。しかも、それは決してでしゃばらないものであること。
大島紬は黒っぽく地味だったけれど、母は袖口や裾になんともいえない渋い色調の赤をほどこすのだった。
えりあしのほつれ毛をかきあげる時など、袖ぐちかちらっと渋い赤がこぼれて美しかった。
そしてなにより私が美しいと思ったのはその絹ずれの音。母が歩くたびにシュッシュッと心地よい雅(みやびやか)な音がした。同時に裾裏に配したほんの2,3ミリの赤い裏生地が地味な着物を一瞬のうちにつややかなものにするのだった。
表の生地が黒っぽい地味な着物は、母の姿をほぼすっぽりと蓋(おお)っていた。
しかし袖口や裾の裏地に配された渋い赤が動くたびにちらりと見えて、あっと驚くほど艶っぽく、眼の中にその赤が鮮明に残るのだった。なんというあざといばかりの美しさだろうか!
「たおやか」とは着物姿をさすのだと思った。
物をとるとき、たもとを片方の手で押さえながらとる。その美しい手元の三角形が女らしいたおやかな美をかもしだす。
また、着物の袖というのは女の美の隠しどころである。真っ白な女の二の腕がものをとろうとするとき、袖口からこぼれるようにみえる。それは今までかくれていただけになんともなまめかしく美しい。
このように和服は日本人の美意識の粋がそこに結集しているかのようである。
私も大島が似合う年齢になって一つ発見したことがある。
それは地味な大島は顔を華やかにすることだった。渋さ、シックなものというのは「若さ」「華やかさ」を逆に引き出すのだということをみつけた。
(そうか!)(母が子供の私に言った「大島の魅力は決してでしゃばらないのに、秘めた美があるのよ」ってそういう意味だったのね)
着物は冠婚葬祭のときだけ着るようになった今、すたれさせてしまうのは惜しいものである。
夏の盛りの今、浴衣を着ることからはじめたい。下駄をカラコロさせて夕涼みにでる。
一陣の涼風(すずかぜ)がうなじのおくれ毛をなでていく。

涼風(すずかぜ)の曲がりくねって来たりけり小林一茶