飛翔

日々の随想です

文豪とお能

作家や文学者の中には能楽をたしなんだり、能面を集めたり、あるいは能役者だったりするひとが多い。

芥川龍之介は能面を集めて悦にいっていたという。
谷崎潤一郎の娘婿は観世流の家元の次男観世栄夫
あの夢野久作にいたっては正真正銘「喜多流能楽師」である。
安部能成能楽研究を。
野上豊一郎は英文学者でありながら能楽研究の第一人者である。
英文学者の福原麟太郎も幼少時から謡いを習っていた。
そしてあの泉鏡花の叔父は宝生流の名手松本金太郎である。
高浜虚子能楽をたしなんだ一人。
この高浜虚子の実兄は池内信嘉悦氏で、能楽会理事で能楽振興の功労者でもある。

この高浜虚子に誘われて謡いの稽古を宝生新に習っていたのが夏目漱石
「我が輩は猫である」では苦沙弥先生が謡を習っているものの、いつも「これハ、平の宗盛にて候」ばかりを繰り返しているという話が出てくる。お能『熊野』のワキである。

ここで夏目漱石の謡いの腕前はどんなだったのか実際聞いた人に登場願おうか。
能楽研究の第一人者で英文学者の野上豊一郎夫人、作家の野上弥生子
能楽全集』第六巻から「思い出 さまざま」と題した対談より:


夏目漱石が率いるグループは宝生流の家元宝生新に謡をならっていた。
宝生新は素人へのお稽古には興味がないのでよくすっぽかしたという。
すると夏目漱石は怒って「以後はお稽古に及ばず」という手紙を出した。
そこへ手紙と入れ替えのようにひょっこり顔をだした宝生新。
夏目漱石は「もうお断りの手紙を出しました」と云うと、
ケロリとして「あ、さようですか。
さあ、はじめましょう」と言ってまた稽古をはじめて仲直りしたという。
二人の間にはそうした洒々落々としたところがあった。

さていよいよ夏目漱石の謡いがどんな風だったかというエピソード。

野上弥生子さんが夏目家の奥様に用事があってでかけたときのこと。


書斎の次の間(六畳)で待っていると隣から能楽「清経」のツレの「なに身を投げそらしくなり給ひたるとや」のくだりが聞こえてきた。
実に立派な謡いで、その時初めて「夏目漱石先生はこんなにお上手なのかしら」と思って感嘆したら、そのあとから「めえー」という山羊のような声でおかしくなった。
前のは代稽古で見えていた尾上始太郎さんの謡いで、あとの山羊のような謡は 夏目漱石だった。
声は悪くないけれど、少し甘ったるい間延びした謡いだった。

どうやら「我が輩は猫である」にでてくる苦沙弥先生の謡いの様子は夏目漱石自身のようである。

能楽の魅力にとりつかれた文学者たちはいったいどこにその魅力をかんじたのであろうか?

詞章の美しさと日本語の持つリズム、序破急にのり舞い、物語を創り上げる魅力の奥底に何かがあるのだろう。

私も日々稽古にいそしむ身なれば、その魅力を解いてみたいものだ。