飛翔

日々の随想です

『花のほかには松ばかり』に寄せる一文

花のほかには松ばかり―謡曲を読む愉しみ

花のほかには松ばかり―謡曲を読む愉しみ

『狐の書評』で有名な<狐>が山村修であったとその素顔をあかしたのはつい最近のことであった。
そんな矢先、山村氏の訃報を知った。五十代という若さは無念と云うほか言葉が見つからない。
本書はお亡くなりになるほんの四日前8月10日付けの出版である。
観世流謡曲,仕舞いを習いそめて久しい私は本書の副題となっている(謡曲を読む愉しみ)に惹かれ、他の本はすべてうっちゃって読んだ。ましてや山村氏の最後の作品とあっては居ずまいを正して読んだのは言うまでもない。

第一章(謡曲を読むということ)
のっけから読者は意外なことを知る。作家の夢野久作が「喜多流謡曲教授]の看板を掲げた能楽師であったことに。
能楽師である夢野久作は能のエッセイの中で、謡曲のつづれ錦と呼ばれる美文調を逆説的な表現「雑巾の様に古びた黒い寄せ文」と書いてあるところで、山村氏は目が点になった。
夢野久作をはじめとして、おおよその能楽師たちは謡曲を「読む」ということをしなかったのだ。
能は謡いと囃し方、舞い、狂言などの総合的な演劇形式のものである。
つまり謡曲のテクスト、謡本はあくまでも能の台本である。
能楽師は台本を舞いや謡によって身体化し、演技してみせるのが芸の見せ所であって、「読む」ものではないのである。
しかし、文人のなかでも漱石謡曲を「読む」テクスト、文芸として考えていたのである。
かつての<狐>らしく山村氏はその作品『行人』から読み解き、謡曲を「読むテクスト」と考える立場と「能の台本」と考える立場の齟齬を漱石は微妙に描いていることをあぶりだしてみせた。
一方、知識人、野上豊一郎、戸川秋骨福原麟太郎の3人はいずれも謡曲は「読む」ものでないとする人たちとしてあげている。
この三人は偶然にも英文学者である。ここでさりげなく著者は「シェイクスピア劇を「読む」ことには抵抗がなかったのだろうか」とちくりと牽制球を投げてみせる。

この3人の対極にある田代慶一郎謡曲を読む』から、「読む近松」と「見る近松」とが市民権を得、「読むシェイクスピア」と「見るシェイクスピア」とが併存していることを引いている。そこから「見る能」と並んで「読む能」があってもよいとし、舞台上の能の素晴らしさと読む謡曲の詞章の美しさは本質的に異次元の芸術体験であると著者も共感を同じくするのである。

第二章は本書のハイライト謡曲25曲、著者独自の「読む」愉しみが開陳される。
あとがきに著者は「一日に一曲は謡曲を読んでいます」「一日のうちでとってもきらきら光る愉しみの時間です」とある。
だからだろうか、一つ一つを舌頭に転がし舌鼓をうつように味読し五感をふるわせるように書いている山村氏の姿が思い浮かぶ。
しかも名うての書評家でもある著者のこと、そこかしこに古今東西の本(中勘助大江健三郎最相葉月、黒澤作品、ギリシャ古典など)からの引用が絶妙で、謡曲が読み物としていかに愉しく深いものか感得できるのである。
あとがきでこの25曲の全てを夫人と共に話しあいながら書いたとある。
最期のひと時をどんなにか愉しくすごすことができたであろう。
山村氏と奥様は、同じきらきら光る愉しみを共有なさったのではないだろうか。
そう考えると最後の作品を「謡曲を読む愉しみ」で終えることができたのは一個人としても作家としても冥利につきるというもの。
「人間の心性の宝庫」のような「謡曲」をこんなにも味わい深く「読む」ことができた幸せを天国の山村氏に伝えたい。
出版先は謡曲本の出版もとである檜書店であることにも含蓄を感じた。
(続く)

(続きである)

『花のほかには松ばかり』の書評をしてきた。
山村修氏最後の作品である本書に個人的な想いを書きつらねたいと思う。

本書を読んで山村氏の謙虚などちらかといえばシャイなお人柄を感じた。
気負うことがなく、押し付けることがなく、抑制の効いた文にそれを感じる。
それゆえ一読するとさらりとした感想を抱くが、さらりと読み過ごしては著者の真髄を取り逃してしまいそうである。

「花のほかには松ばかり」と謡って白拍子の舞いが始まるところで、著者はこのたった一行に戦慄をおぼえるのである。

[読めばこそ目に映るものがあり、耳にひびくものがあり、胸がゆすられることがある」 「ほん一行単位で、胸をさわがせたり、晴らしたり、イメージをあざやかに広げさせたりする詞章があり、読んでいて嬉しいのはそんな一行にめぐり逢ったときです」

と著者は言う。ここが本書の本書たる所以(「謡曲を読む愉しみ」)である。
本書は巷に出ている能の入門書や解説書、謡曲への入門書ではない。

謡曲を読む愉しみ」の本であると同時に、名うての書評家であった著者の本との向かい方、更に言うなら、「たった一行」への読みに胸をさわがせたり、晴らしたり、イメージをあざやかに広げさせたりする、著者の「読み」の姿勢をこの本にみるのである。
著書『遅読のすすめ』にもあるようにじっくりと味読する本である。
また本書は売文としての著述とは異なるようにも思える。
謡曲を読む」ことは「一日のきらきらと光る愉しみ」であり、令夫人と共に25曲を語り合いながら筆を進めたとある。
大好きな「謡曲を読む」ことを「書く」喜びにみちたことだろう。
ゆえに筆が走りすぎないよう抑制し、分かりやすく書き、自らも愉しみ、薀蓄を傾けるように書いたと私には思える。
一つの曲に一方から光をあてるだけでなく、別の方向から光を照射させると,より一層立体となって作品がうかびあがる。それを書評家らしく、古今東西様々な本をとりあげ、比較文学のように、引用、抜粋することにより、読者に立体像として一曲の焦点を結ばせることに成功したのである。
その手法と言い、取り上げる本の妙味といい、どれをとっても、さらりと読んでは惜しいものがある。
本を「読む」ということは愉しみなことであるのは言うまでもない。と同時に人生のポケットをたくさん持つことでもある。
そのポケットからあふれ出た様々な感性が人生に色彩を帯びさせる。
たった一つの謡曲に自らのポケットから取り出したそれらのものをふくらませて、立体的な像を結ばせるわざは見事。 この本が著者の最後の作品としても悔いのないものであったに違いない。

この本の題名を「花のほかには松ばかり」としたわけはそこにあるのではないだろうか。
つまり、「花のほかには松ばかり」のたった一行に戦慄をおぼえ、イメージをあざやかに広げ、そんな一行にめぐり逢えた喜びに震えたからである。
そんな著者はまさに「読む」達人であり、「読む愉しみ」を書きおえてその生を終えた人である。

私はこんなにも「読む愉しみ」をわけてもらった本はないと思っている。
私の宝物の一冊となった。

ここに深い哀悼の意を捧げたい。

遅読のすすめ

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