飛翔

日々の随想です

『沈黙』遠藤周作著 を読んで

沈黙 (新潮文庫)
遠藤 周作
新潮社

裏表紙の紹介文から引用すると、本書は:

島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制のあくまで厳しい日本に潜入したポルトガル司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる……。神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、〈神の沈黙〉という永遠の主題に切実な問いを投げかける書き下ろし長編
と紹介されている。
 まずはじめに、思うことは、人は生きている間に何度も厳しい選択を迫られる。
 それはある意味「踏み絵」である。
 「踏み絵」は時代の「踏み絵」でもあった。
 例えば、美しいもの、希望、夢を戦争や言論弾圧で多くがねじ伏せられ、踏み絵を踏んだ。生きていかなければならなかったからだ。
 現代でもなお「踏み絵」は踏まされているのだ。
 厳しい選択の中でも、ねじ伏せられず、踏み絵を踏まずに死んでいった人がいる。
 殉教である。
 殉教した人は強く立派である。
 では「踏み絵」を踏んでしまった弱い者は生涯浮かばれないのであろうか?

 純朴な村の衆が踏み絵を迫られて言う言葉

足ばかけんやったら、わしらだけでじゃなく、村の衆みんなが同じ取り調べを受けんならんごとなる。ああ、わしら、どげんしたらよかとだ」
 むごい拷問の数々にも屈服せず、殉教したものがいるかと思うと、愛する者や家族の命、村の衆と引き換えにすることができず踏み絵を踏む者たちがいる。
 踏み絵を踏んだものは「転んだ」もの。つまり棄教したのだ。
 殉教した人たちは強かったが、それでは踏み絵を踏んでしまった弱い者たちはどうか?
 キリシタン迫害史の中で、殉教できずに転んだ(棄教した)人々。彼らは単に教えを棄てたというのではなくて、ほんとうに自分が愛したものを棄てる事への苦悩の中に生きていかなければならない。
 弱きものの代表者として裏切り者のユダのような存在のキチジロウの言葉を引いてみよう:
わしはパードレを売り申した。踏み絵にも足をかけ申した。この世にはなあ、弱か者と強か者のござります。強か者はどげん責め苦にもめげず、パライソに参れましょうが、俺(おい)のように生れつき弱か者は踏絵ば踏めよと役人の責め苦を受ければ、、、
 果たしてこのキチジロウを軽蔑できるだろうか?
 私がこの時代に生きていたら、きっと私もキチジロウと同じであろう。
 愛するものや家族のため、誰かのために踏み絵をきっと踏むだろう。
 そして今も、踏んでいる。
 それは私が弱い人間だからであり、生きていくためには踏絵を踏む人間であるからだ。
 いつの世も、弱い者の声はとりあげられない。沈黙のままである。
 
 最後の部分で主人公ロドリゴに「踏むがいい」と声をかける『沈黙』のイエス
「踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから。
 強い者も弱い者もいないのだ。強い者よりも弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」
 主人公ロドリゴに「踏むがいい」と声をかける『沈黙』のイエスの心。愛し、赦し、共に苦しんでくれるイエスに胸が詰まる。

 キリスト教迫害のわが国の歴史を背景に、殉教できずに転んだ(棄教した)人々。 いい変えるなら、いつの世にもいる弱きものの声なき声を掬いとろうとしたのが本書のテーマなのではないだろうか。
 どんな苦難の中でも「私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」と共に苦しんでくれる人生の同伴者たるイエスの愛と赦しの語りかけがこだまするのである。

※次はマーティン・スコセッシ遠藤周作の『沈黙』を映画化したそうなので観に行きたいと思う。