いわゆる生老病死に関わる言葉はよほど気をつけないといけないように思う。知人や親戚の人がお亡くなりになったとき、ご家族の方にお悔やみの言葉は心からかけたつもりであった。しかし、自分の母が亡くなったとき、かけられたお悔やみの言葉はそらぞらしく聞こえたり、「こんな悲しみがどうしてあなたにわかるの?」と相手に聞きたいような気持ちにさえなった。
と言っても,かけてくださった方が心からの気持ちであることは承知の上である。承知であってもその時の深い喪失感や慟哭を誰も分かつ事などできないと思ったのだった。
しかし、相手が同じように肉親を亡くしたことがある人の場合、たとえ言葉をかけてくれなくとも、この気持ちは分かると確信し、共に泣くことができるのだ。
病の場合もそうだ。自分が重篤患者になったとき、身内であっても、たとえそれが夫であっても、慰めの言葉はあくまでも「慰め」でしかなかった。では家族は、身内は、友人はどうしたらよいのか?答えはあるようでないのだ。そっと心に寄り添うしかない。時には黙って手をにぎるだけでよい。
生老病死だけに限らず、状況はそれぞれ違っても、人は、それぞれ哀しみや苦しみや、やりきれなさをかかえているものだ。
松村由利子さんの歌集『鳥女』にこんな歌がある:
・自らを閉じて明るきしゃぼん玉触れてはならぬ悲しみはあり
・やわらかき殻もて生きる友なれば励まさぬこと慰めぬこと
一首目の歌。外見だけでも明るくしようと自らを鼓舞する人の内なる悲しみの丈は深い。
心はみえないもの。そのみえない心を思い遣るとき、人の痛みを知っている人はかくのごとき優しさとなって現れるのだとおもった。
二首目の歌。言葉によって癒されることはある。しかし、時には黙って見守る優しさもありがたいものだ。
人は指を切ったときの痛みは想像できる。
しかし、実際に切ったときの痛みは想像とはまるで違うことを心のどこかにしまっておきたい。