飛翔

日々の随想です

真(まこと)の言葉

 言葉は心の発露である。情報の伝達手段でもあるけれど、なによりも、まず、言葉を発する人の心を伝えるものであると思う。良い悪いにかかわらず、心のありかを伝える言葉は、それだけに時として、人の心を傷つけることもあるし、逆に人の心を潤し慰め、よりどころとなることもある。
 昨日のブログの記事にもあげたように、私も、友人も、その言葉に苦しめられ、傷ついて打ちひしがれていた日々であった。しかし、あるブログの「言葉」に、心を震わすほど勇気づけられ、気持ちを立て直すことができたことは凄いことだと実感する。
 「言葉」に慰められ、勇気づけられ、気持ちを立て直すことができたといっても、それは美辞麗句によってではない。
 つまり、言葉がもつ意味、「真」(まこと)に魂を揺さぶられたのである。
 海に投げ出され、おぼれそうになり、もがいている人が流れてきた一本の流木につかまり命を助けられるように、言葉は時として、命さえも救うことがある。
 自信がない人は、自分の存在を他も自分も認めることができないで落ち込んでいるものだ。しかし、そんな人にとって、あるがままの自分でいい、「どんな時でも、私は私でいい」「どんな時でも、あなたはあなたでいい」という言葉は天啓のように魂に響く。
 今朝、友人は言葉の主にいつか会ってお礼を言いたいと書いてきた。
 私もここ数か月、自分を認められず、苦しんできた。瞑想教室へ入り、瞑想する中で何かが少しずつ変化してきたことに気づくようになった。
 あるがままの自分、「私は私でいい」の言葉に命をふきかえした。
言葉は心の臓までもえぐることがあるが、命を、魂までも救うものであると思った。
 だから、言葉を生み出すときは、心して発したい。