飛翔

日々の随想です

えくぼ


「許す」という言葉はとても使うのが難しい。
誰が誰を許すのか?
許す方は何だか高みにたっているようで、許される方はこうべを垂れているようだ。
いつもここまできて思考が行き止まりになる。


親しい人と口をきかなくなって久しい。
心の奥までなじられた。 それから一年半後に深く深く悔いる言葉をもらった。
その間、私は自分の悪いところと対峙して苦しんで反省し、どん底をはいずり回る気持ちでいた。
やっと自分の気持ちに決着をつけたとき、詫び状がきた。
詫び状を私は静かな気持ちで受け取ってすべてのことを水に流すことにした。


さざなみひとつない湖面になった私の心。
「許す」という言葉はあてはまらない。
詫びたり、詫びられたり、そんな関係は血が通っている。
「許す」と言う言葉は高低差があって対等でない。


人になじられたことで、私は怒り心頭したけれど、なじられた事実と嫌でも向き合うことになった。悔しくて地団駄踏んだあとに、やっと自分の落ち度と向き合うことができた。
 良いところだけでなく、自分の醜い部分と向き合って、抵抗するのでなく、そんな自分のありのままの姿と向き合えたのだった。
 自分ってこんな面があったのだと認めた瞬間、抵抗感がなくなって、正面からあらためて自分と向き合えた。


 誰でも自分の嫌な面はみたくないものだ。それを突きつけられる事態になると抵抗して相手をのろったりする。それは自分の嫌な側面と向き合えない心が抵抗しているのだ。
 鏡の中のニキビをみつけて厚手のファンデーションで塗り込めてもニキビを一時的に隠しただけだ。ニキビの存在を認めてそれと向き合うと、不規則な食生活や生活態度が思い当たる。


 自分のありのままを認めることは苦しい。自分の中の善も悪もひっくるめて自分だと認めた瞬間、ふっと楽になる。
 あらためて自分と真正面に向き合えるきっかけを作ってくれた友人に感謝の気持ちが湧いてきた。


 詫びた友人を「許し」たのではない。気づきを与えてくれた事への感謝があるのみである。
 

  水に流したというのは何もない元の状態になったということだ。
 鏡のような水面に指をつけてみる。
 波紋はたたないけれど、水に穴があいたような感覚を覚える。
 それは赤ちゃんのほっぺたに浮かぶ「えくぼ」のようだ。
 えくぼは笑ったとき初めてできるもの。