飛翔

日々の随想です

さんまの歌


七輪(しちりん)とさんま
 「はい!焼けたわよ!」
 秋の夕暮れ。おいしい匂いとけむりの中、母が七輪から皿に移したのは「さんま」。
皿の上では、さんまがジュージュー音を立てている。
 焼けた順に食べるのが、我が家のさんまを食べるルールだった。家族の顔ぶれが揃うまで、じっとテーブルでおあずけなどと、野暮なことは、さんまには通用しない。
ジュージュー音を立てているさんまにかぶりつく瞬間、口の中にこうばしい皮と身が、ほろりとほどける。はふ、はふ、ふぉふ、ふぉふ、と、声とも、言葉ともつかない息を吐いて食べる時ほどおいしいものはない。
 秋の夕暮れと母の白い割烹着、七輪から立ち上る煙、それらすべてがさんまの一皿に盛られているといっても過言ではない。 
 落語に「目黒のさんま」という噺がある。
 殿様が目黒まで狩りにでかけて、昼時においしそうな匂いがしてきた。これは何かと問うと、庶民が食べる、さんまだとの答えが返ってきた。炭火で焼いた焼き立てのさんまのおいしさに殿様はすっかりさんまが好きになった。城に帰った殿様はさんまを所望する。
 さんまを焼くと脂が多く出る。それでは体に悪いということで脂をすっかり抜き、骨がのどに刺さるといけないと骨を一本一本抜くと、さんまはグズグズになってしまう。こんな形では出せないので、椀の中に入れて出す。すっかりまずくなったさんまの味に怒った殿は
 「いずれで求めたさんまだ」
 と聞く。
 「はい、日本橋 魚河岸で求めてまいりました」
 「ううむ。それはいかん。さんまは目黒に限る」
 という落ちだ。
 落語にもあるように、料理は熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちにお出しするというのが料理人の鉄則である。
 食べる側も、一番おいしい瞬間を出そうという料理人の心意気を汲んで料理を味わうことである。料理をするものと、食べるものがあうんの呼吸にならないといけない。

七輪でさんまを焼く風景を見かけることはなくなった。集合住宅では、さんまを焼くことはできない。煙と匂いはご法度(はっと)なのである。
また「七輪(しちりん)」自体を知らない人が多いし、売っているのを見かけなくなった。家々から七輪が消え、母が着ていた真っ白な割烹着を着ている人も少なくなった。「目黒のさんま」の落語を聞いたことがある人も少なくなった。
 しかし、魚を一生懸命焼いた者とそれをすぐ食べる者の呼吸だけは消したくない。台所するものの「心意気」は割烹着からエプロンになっても変わらない。変えたくないものである。
 さんまのはらわたの苦味や、蕗(ふき)のとうのほろ苦い味を、おいしいと思ったのはいつの頃からだったろうか。それは人生の苦味を知りはじめた頃だったように思う。

 あはれ 秋かぜよ 
 情(こころ)あらば伝へてよ
 男ありて 今日の夕餉(ゆうげ)にひとり
 さんまを食らひて 思ひにふける と。
 (略)
  さんま、さんま  
 さんま苦いか塩つぽいか。
 そが上に熱き涙をしたたらせて
 さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
 あはれ
 げにそは問はまほしくをかし。

佐藤春夫「秋刀魚の歌」(『殉情詩集』)から)