積み木を積んでいって、やっと8割がた積み終えた頃、いきなり誰かの手で崩された。
そんな一日を終えた翌日。そんな日もあるさと自分の努力だけを認めて考えを変えようとしたが、落胆だけが残る。
庭の雑草を抜いているうち、無心になっている自分に気がついた。
無心になろうと思ってなれるものではない。
山登りをして、胸突き八丁へさしかかったときも、同じように「無」になれた。
何も考えている隙間がない。ただ登ることだけ。右足を出し、左足を出し、・・・「無」
草を抜く。一本、一本、・・・・広い庭の雑草をどれだけ抜いただろうか。草のアクで手がよごれ、腰が痛み、汗がしたたり落ちる。気がつくと雀が近くまでいて、逃げようとしない。「無」になっている私は自然と一体になってしまったようだ。
何も考えていないことに気がついた瞬間、もう思考ははじまっている。
綺麗に引き抜かれた草の残骸と、広くなった庭の空間だけが「無」になった時間を表象している。