飛翔

日々の随想です

暑気払いは言葉から


言葉の使い方、使われ方が気になる。
話し言葉は移ろい行くもので、はやり言葉や、若者言葉はめまぐるしく変わるのは致し方がない。
しかし、書き言葉も随分荒っぽくなってきたように思う。もはやそれは話し言葉と変わらない。
格調高くとか、品格を持ってなどと言ったって、鼻でせせら笑われるのがせきのやま。
そういう自分だって随分乱れた日本語を書くのでことばについてのウンチクを語る資格はない。
先の芥川賞受賞者のように、文中、のべつまくなしに卑猥な言葉を羅列しそれが文学賞を受賞するというのも時代のせいなのだろうか?
長野県知事田中康夫が注釈なしでは読むことができないような横文字の羅列で賞を受賞した例もあるから、言葉の品格など文学には何の影響もないのかもしれない。

しかし、内藤濯上田敏などのように、言葉が持つリズムや美しさに渾身をこめた作品を読むと時代が変わろうと日本語の持つ美しさと香りのゆかしさにひれ伏したくなる。
それと同じように日常の話し言葉でも、美しい言葉には気品を感じる。
くだけた言葉も時には親しみがあって悪くはない。
しかし、時と場合がある。
いつでもどこでもくだけすぎはいただけない。
かといって日常どこでもスラングやくだけた言葉ばかりを話しているものが、すぐさま、変わろうとしても、それは「ヤバイでございますでございます」になってしまう。
 食事のマナーもしかり。
365日の日常は日々が大切。
この夏休み、だらけがちな日常を言葉や態度からきちんとしてみるのも悪くはないと思う。