飛翔

日々の随想です

これあげる!

人になにかを「さしあげる」って難しい事だと思う。
「あげる」っていう言葉は何だか上から見下ろすようなきがしないでもない。
「これあげる」っというと、貰うほうは自然発生的に「ありがとう」という言葉が出る。これが貰う側もあげる側も、何の違和感もなければ、すんなりと成り立つ。しかし、そうでない場合は非常に難しい行為だ。
あげる側は細心の気遣いをもって相手側にいささかのひけめも感じさせずに貰ってもらわなければならない。
子供の頃、非常に印象的なやり取りを見たことがある。それは近所に「ぼろや」と呼ばれる人がいて、廃品回収のようなまねごとをして生計を立てている人がいた。子供が大勢いて拾ってきた資材で囲いをしてあるだけの廃屋に住んでいた。随分困窮している風だったけれど一家の主はどこか品格のある容貌をして物静かな人だった。
時々わが家に何かいらなくなった廃品はありませんか?とやってくる。母はいつまとめたのかその人ように新聞やぼろきれや毛布などを用意してあった。
当時、父親が全新聞、雑誌、書籍に目を通す仕事をしていたので古本やの親父が定期的にトラックでさらっていくほどだった。したがって、その「ぼろや」に出すものはなかったのだった。それなのに母はそのぼろやさんの為にひもでくくって幾ばくかの新聞や雑誌をとっておくのだった。そして大勢の子供達ようにと衣服を用意してあった。新聞類は母がそのぼろやに廃品を「売る」と言う形になる。しかし、子供用の衣類は母のある種のプレゼントだった。
それらを渡すとき、母はすまなそうに「サイズが合わなくて着れない服が在るのだけれど、悪いけれど、貰ってもらえるかしら?」と言って手わたすのだった。言われたぼろやさんは「いいですよ」と言って静かに衣類を受け取って帰っていった。
私は不思議な言葉のやり取りにわけが分からなくなった。
「ねえ、お母さん、何であげるって言わなかったの?」と尋ねた。
すると母は「あの人はものを貰いたくて来るのではなくて廃品回収というお仕事をしに来ているのですよ」と言った。「「あげます」と言うと施しをするようで人を卑しめることになるでしょ?」と言った。
幼い私はなんだか良く分からなかったけれど、人になにかを差し上げるときはよくよく言葉を吟味しなければならないらしいということだけは、ぼんやりと理解するのだった。
先日知人がえらい勢いで怒って電話をかけてきた。どうしたのかと思ったら、嫁入り道具の中に混じって使えそうもない古い陶器が出てきたそうな。
一度もつかっていないけれど、もう旧式で使いたくないので出入りのおばさんに差し上げたとのこと。
するとゴミの日にその差し上げた陶器がごっそりゴミ置き場に捨ててあったと言う。
知人曰く:
「わざわざあげたのに。物の価値が分からない人であきれたわ」といってぷんぷん。
何だか電話越しに居丈高な上から人を見る態度が見えてきて何とも不快な感じがした。
「人の振りみて我が振り直せ」とは母の口癖。
私も気が付かないうちに相手への気持ちを考えない人間になってはいないかしら?と我が振りをみなおすのだった。