飛翔

日々の随想です

役に立たない日々

読みながら何度も声をたてて笑ってしまった本である。そして、面白うてやがてしみじみ人生を想う本であった。
 佐野洋子さんは絵本作家でエッセイストである。『100万回生きたねこ』の絵本といえば知らない人はないだろう。
 本書は2003年秋から2008年冬までの日々の出来事や思いが日記風に綴られたものだ。率直で大胆な表現はさばさばとして小気味よく思わず吹き出さずにはおれない。人間観察がするどく美大卒の画家でもあるだけにその人間スケッチは映像をみているようだ。

例えば昔パリの場末のレストランでみた出来事:


昔パリの場末のレストランで毎晩同じ席で夕食を一人で食っているバアさんを見たとき、胸をつかれたことがあった。
首が前に折れて、満身の力をこめて肉を切り、異様なパワーで肉を飲み込んでいた。九十近くに見えた。緑の帽子をかぶり一心不乱に不機嫌のオーラを立ちのぼらせていた。そのままパタリと前のめりになってこと切れても不思議ではなく思え、私は胸がドキドキした。気がつくと皿はなめたように空っぽで仰天した。つえをついてよたよたと外のあかりの中へ消えたコートの後姿は意地っ張りの孤独の固まりで、そのままあの世に行く途中ではないかと思った。さすが肉食人種、さすがヨーロッパ人。



 人間観察はこれだけでなく日常関わる人たちの観察が面白いうえ、その観察の裏に潜む著者の人間性や人生観、生きる姿勢などが垣間見えて滋味があふれる。

 65歳から70歳に手が届くまでの日常はさまざまな料理が登場する。
たとえばさんまとオレンジジュースの炊き込みご飯とか、絶品のレバーペーストなど。

 また車を運転して病院へ行く途中、病院が目の前に見えているのに道に迷い、タクシーを止めて先導してもらって料金を払ったりと爆笑する。

 しかし、笑い転げながら読み進むうち飢えて死んでいった兄や、 中国人強盗に気丈に立ち向かった母、
ちゃぶ台をひっくり返す父の思い出に戦中戦後の昭和がよみがえり、その時代に生きた人々にものを思うのだった。

 いつも怒っている文房具屋の親父や、自分が嫌いな野菜は店頭におかないという八百屋、
奇妙な名前の友人たち(ぺぺオ、ユユコ、ミミコ、ササ子、ヨヨ子など)が織りなす日常が強烈なインパクトを与え、
著者の目を通してみる世間や人間観、生老病死に彩をあたえていて面白く息をもつかせない。

 時にはビデオを借りてくる。
それも戦争ものである。戦争好きだからでなくなぜ人類はばかばかしい悲惨を繰り返すのか知りたいからだ。
参謀というものは世界地図を広げて作戦を立てるだけ、現場で戦うのは生身の一番身分の低い兵隊。
「男の人っていい人たちだなあ」と皮肉ることを忘れない。
そして女を兵隊にしたら、脱走するか、ずるするか、仲間割れしたり、敵より平素気に食わない仲間や、本妻と二号が一緒になったりしたら、後ろから打ったりしそうな気がする女に大義などないと思う
というあたりは男と云うものを皮肉り、女の特性をちくりと刺し、最後に「女に大義などない」とやってくれる。

 また時事ネタでは女は子どもを「産む機械」だと云われて、
あんなにヒステリックになるなんて
女がすたるではないか
はいはいそうですよ、男は単なる種馬ですわな、機械以下ですわ、しっかりがんばりなと笑っていればいいではないか
 とするくだりはなんとも痛快である。

 そして最後70歳をまえにした著者は乳がんから骨に転移して余命を医者に聞くところはからっとあっさりとしている。
あっさりしているだけに読む側はしんとなる。
 「死ぬのはこわくないの?」と聞かれて「だっていつかは死ぬじゃん」「もっと大変な病気はいっぱいあるじゃん。
何でガンだけ『そうぜつなたたかい』とか云うの、別にたたかわなくてもいいじゃん。私戦う人嫌いだよ」とある。

 岡本かのこの歌を引いて「・・・いよいよ華やぐ命なりけり」とおもう著者。
 「この先長くないと思うと天衣無縫に生きたい、思ってはならないことを思いたい」という文に胸中深くするのである。

 日常をとりまく人たちの人生をスケッチする著者のパレットに深い陰影と滋味を帯びさせたのは作者自身の人生そのものである。
 読後じわじわと胸に響いて効いて来るエッセイで人生というものをあらためて考えるのだった。
 心に深く残る一冊となった。

「100万回生きたねこ」などのロングセラーで知られる絵本作家の佐野洋子さんが乳がんのため、2010年、東京都内の病院でお亡くなりなりました。72歳でした。

 ご冥福をお祈りすると共に、その作品の書評をここに再掲載してその死を悼みたいと思います。