飛翔

日々の随想です

会話と人情

 過疎の村の郵便局がなくなって困ったという話がある。
 なくなったといえば、個人商店が少なくなった。八百屋、魚屋、乾物屋、豆腐屋、肉屋など。スーパーに押されて次々と姿が町から消えていく。
 最近の若者はスーパーでは誰とも口を利かないから楽でよいという。
 仕事場以外で他人と話すことがないという人が多い。
 コミュニケーションはもっぱら携帯メールだけ。

 私なんぞは個人商店、例えば魚屋などで教えてもらうことが多い。
 旬の魚の名前を教えてもらい、料理の仕方を教えてもらい、ついでにおまけまでしてもらって嬉しくなる。と言っても、近くに魚屋はない。土曜日に市場へ早朝でかけ新鮮な魚を買う。昨日も朝から新鮮なアジとイカの刺身を炊き立てのご飯と共に食べた。野菜も農家のおばさんが開く市で買う。なじみのおばさんとは、親戚のように親しくなり、自家製の漬物を分けてもらったり、お味噌も頂く。時々、ただで野菜を分けてもらうことも有る。おばさんたちの愚痴を聞いたり、世間話に大笑いしたりする。人と人とがかかわりあうわずらわしさもあるけれど、そんなこと以上に、交わす会話の中に人情のぬくみを感じてしみじみとすることが多い。
  
 しかし、それもこれも郊外であるからかもしれない。都会では仕事帰りにスーパーへ走って行き、あわてて必要なものを買い、家路に着く。
 世の中が変わったのである。
 狭い路地を車が行きかうとき、一方は道をあけ、一方に道をゆずる。
 譲られたほうは「ありがとう!」と会釈したり、手を上げたり、クラクションをならす。しかし、そうしたことをいっさいせず、轟然と譲られるのが当たり前のように通り過ぎることが最近多くなった。
 礼儀知らずなのか、ちょっとした心遣いがないのか?
 英国でも同じように狭い道を譲り合って通ることが多い。
 そんなとき、英国人はゆずるばかりでゆずられようとしない。
 ゆずるのが紳士のたしなみとばかりに、「どうぞどうぞ」と言い合うのが可笑しい。
 しかし、譲ってもらったときは通りがけに「あなたは本当のジェントルマンだ!」と相手をたたえて通り過ぎる人もいる。
 なんともほほえましいばかりだ。
 子どもを叱るときも「あなたは英国紳士として恥ずかしくないの?」と言う。
 ジェントルマンシップが徹底されている。
 もっとも日本人に「大和魂はないのか?」と言ったら国粋主義者か?と揶揄(やゆ)されるのが落ちである。
 個人商店から脱線したが、人とのコミュニケーションが希薄になって会話べたが多いといわれる昨今、せめて家族同士の会話は密にしたいものだ。
 そういう我が家も会話べたな家族である。
 なにしろ夫婦の会話は代名詞ばかりの昨今。
 「あれもうやったかい?」「あれって何よ?」
 「あれって言ったら、あれに決まってるだろう!」「ああ、あれのことだったのね」
 「それとって」「それって何だ?これか?」「違う、あれだってば!」
 「昨日のあれ、用意してくれた?」「あれはあの子がやっておいたわよ」
 「馬鹿だなあ、あれはあの子じゃなくてあいつにしておけっていっただろう!」

 今に正確な日本語忘れそう!