飛翔

日々の随想です

本物と偽者

 
ホームベーカリーを買って以来一週間にパンを4回以上焼く。一斤などはあっというまに食べてしまう。
 便利なホームベーカリーにすっかり骨抜きになって手作りパンをこねなくなった。
 便利といえば驚いたことが一つある。それは多くのお弟子さんをかかえている茶道教室を訪問したときのこと。釜には湯のたぎる音がしゅんしゅんとしてまさにあの風流な松風を聞くようだった。
 昔から茶の湯では釜の湯がたぎる音を「松風」と言っている。
 炉には炭の火が赤く見えているはずが・・・あれれれ?よく見ると炭の形をしている電気コンロだった。
 茶の湯では「炭点前」というものがあって、釜をおろして炉の中に炭をおこし、灰を美しくならし、お香を焚き、釜の湯をたぎらせる準備をするのである。しかもただ準備するのでなく、それをそこに集まるお客さまに愛でてもらうのである。美しく配置された炭、美しくならされた灰を愛でるのである。何と云う美意識だろうか!
 その炭点前である炭が電気とあっては炭点前はこの稽古場ではしないということである。
 そもそも、茶の湯とは一服のお茶をおいしく客人に召しあがっていただくもてなしの心遣いである。
 そのもてなしの心の一つが炭点前であるのに偽者である電気の炭を使うとは悲しい。偽装である。
 私のお茶の師匠はこの炭を洗うことから教えている。炭を洗っては火が付かないではないかと言われそうだけれど、そうではない。洗った後陰干しをして良く乾燥させるのである。
 何故洗うのだろうか?きたないから?いえいえ。そうではない。
 炭の表面に炭の粉がついていると炉の中でその粉がパチパチとはぜて飛ぶからである。静まり返った茶室で炭の粉が花火のように威勢よくパチパチはぜては興ざめである。
 洗った炭は次によく乾燥させ決められた長さに切るのである。黄金比率とはいかないまでも炉の中に入れて美しい形であるように切るのである。
  人をもてなす一服の茶には裏仕事として随分手間隙がかけられているのだ。
 もてなすとはにわかじたてでなく何年も前から粛々と準備する心のありようである。
 こんな茶道も花嫁修行の一つとして稽古し、結婚してしまえばもうやめてしまうことが多い。
 茶の湯の楽しさ奥の深さを知る前にやめてしまうのは残念なことだ。
 すぐやめてしまう人、花嫁修業のときだけ習う人には偽者の電気コンロ炭で十分なのかもしれない。
 偽装が世にはびこりだした昨今である。
 稽古場で本当の茶の湯の心を学んだもの。あるいは何につけても本物のよさを知っているものはにせものなどに魂は奪われない。
 なぜなら本物にはにせものにはない真(まこと)があるからだ。
 必要は発明の母。便利なことは不便よりもまさるものである。人類の発展もそこから始まっている。
 しかし、不便な手仕事には便利さにはない温かみがあり、心がある。そして何より作る側の「時のたゆたい」というものがある。