飛翔

日々の随想です

桜桃忌と石井桃子さん

 6月19日は「桜桃忌」
 1948年6月19日は太宰治の39歳の誕生日であり、玉川上水で愛人の山崎富栄(当時28歳)と共に入水し遺体が見つかった日でもある。太宰の墓のある三鷹の善林寺では多くの太宰ファンが「桜桃忌」に集う。
 今は亡き石井桃子さんの全集「石井桃子全集7」(岩波書店)の中で(忘れえぬ人々 身辺雑記)という副題中、「太宰さん」というタイトルの中で思いがけないエピソードが書かれていた。

 太宰さんにお会いしたことは、何回もない。多くて五、六回だったろうか。それも戦争中の短い期間だけだった。そんな私に、いまだによく「太宰さんてどんな人でしたか?」というようなことを聞く人があるのは、たぶん井伏鱒二氏が、ある随筆に、太宰さんと一緒に死んだ女の人と、私のように見える女とを対比して書かれたからではないかと思う

 という書き出しではじまっている。
 以後は太宰治と云う名前を知ったいきさつから井伏鱒二宅ではじめてあった太宰治の印象(ちょっとつかみどころもないほど軟らかい感じの、私には少年のように若々しく思えた人)が語られている。
また井伏鱒二石井桃子さんに伝えた言葉
 「太宰君がね、あなたのこと、あの人、えらい人ですねって言ってましたよ。」とおっしゃるので、私は笑ってしまったのである。

 などのエピソードが開陳されていて井伏鱒二を中心に太宰治石井桃子さんのなんともあたたかな空気が彷彿されるのであった。この章の最後に次のようなエピソードがあって驚かされた。

 ある日、突然東北のある山かげの道で仙台からお米をしょいに来た友人を駅まで送っていきながら、私は、太宰さんの「心中」のニュースを聞いた。それはショックだったけれど、私がそのとき、ぱっと考えたのは、太宰さんのことではなくて、井伏さんのことだった。何度も太宰さんを「死にたい病気」からひきもどしたことのある井伏さんが、とうとうこのことに会われて、どんなにしていらっしゃるだろうかということだった。以下省略。
 それから、井伏さんは、ひょっと、「太宰君、あなたがすきでしたね。とおっしゃった。私は、いまでもよくおぼえているのだけれど、「はァ」と笑うような、不フキンシンな声をだしてしまった。そしてびっくりしたまま「それを言ってくださればよかったのに。私なら、太宰さんを殺しませんよ」と言った。私は、大宰夫人のことも、たいへん同情していたし、そのほかのこともあったから、このことばは、私が、太宰さんをすきとかきらいとかいうこととは、まったくべつで、一つの生命が惜しまれてならなかったのだけれど、私は、それを井伏さんによく説明することができなかった。

 と云う風に井伏鱒二宅で出会った石井桃子さんと太宰治との交流が淡々としかし懐かしく感慨深い筆致で書かれていて当時の太宰治の人となりや井伏鱒二の細やかな心遣いがしみじみとあふれていて、いつまでも心に残る名随筆となっている.
 ※ネットのさる本屋さんで「私なら、太宰さんを殺しませんよ」と石井桃子さんは顔をあからめて言ったと書いてあったけれど、ご本人が書いたこの随筆ではそんな顔を赤らめるようなことがないことはあきらかである。

 太宰治石井桃子さんを敬慕していたらしいことはうかがえるけれど、石井さんご自身がお書きになっているように「このことばは、私が、太宰さんをすきとかきらいとかいうこととは、まったくべつで、一つの生命が惜しまれてならなかったのだけれど、私は、それを井伏さんによく説明することができなかった。
 というのが真実である。