飛翔

日々の随想です

日常の中の能

春のうららかな日のことだった。父と母が珍しく草取りをしていると、隣の家でもどうやら草取りをはじめたらしい音がする。隣家との間には桜の木が植わっていた。草取りをしているのは新婚カップルのお婿さんらしい。やがてそのお婿さん、ふと桜をみながら謡曲を謡いだした。

♪「捨て人も、花には何と隠れ家の、花には何と隠れ家の、所は嵯峨の奥なれども、春に訪(と)はれて山までも、憂き世のさがになるものを。げにや捨ててだに、この世の外はなきものを、いづくか終(つい)の住みかなる」♪

何と!お能西行桜」ではないか!
桜を仰ぎながらお能の一節を謡うとはお若いのに何と風雅なこと。
草取りをしていた父がつと立ち上がって後を続けるようにこれまた謡い出した。父は西行が何よりも好き。そしてお能西行桜」をこれまた、こよなく愛していたのだった。
♪「埋もれ木の人知れぬ身と沈めども、心の花は残りけるぞや。花見んと、群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜の、とがにはありける」♪
桜をはさんで若い新婚の隣人と父とがお能談義をはじめるのに時はそうかからない。父が「今日は花見の宴としましょうか」と言い出した。それから夜になるまで楽しい語らいの宴が続いたのだった。お能好きの二人。別れ際もまた「西行桜」からの謡い。
♪「あら名残惜しの夜遊(やゆう)かな。惜しむべし、得がたきは時、逢いがたきは友なるべし。春宵一刻値千金、花に清香月に影」♪
♪「春の夜の。花の影より、明け初めて」
♪「鐘をも待たぬ、別れこそあれ、別れこそあれ、別れこそあれ」


 春になって、桜の花が咲く頃になると父はこのときの「花の宴(うたげ)」の様子を懐かしんでは独り「西行桜」を謡い舞うのだった。
父が亡くなった今、この能「西行桜」についてふと考えることがある。
爛漫に咲く桜の華やぎが能舞台いっぱいに感じられる能であるけれど、最近違う風にこの能を観てしまうのである。前半は華やかさにみちているけれど、後半の何とも言えない閑寂さに胸がうたれてしまうのだ。

仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば西行

ぱっと咲いてぱっと散ってしまう桜の花。その華やぎともののあわれにそれぞれが心の中に咲かせる「桜」はきっとさまざまなものなのであろう。

さまざまのこと思ひ出す桜かな芭蕉

あら名残惜しの夜遊(やゆう)かな。
惜しむべし、得がたきは時、逢いがたきは友なるべし。
春宵一刻値千金、花に清香月に影

 日常の中にもこうして能は愛され、愛唱され舞うことがある。美しい日本の伝統芸能はすたれない。