飛翔

日々の随想です

井伏鱒二/弥次郎兵衛/ななかまど

井伏鱒二・弥次郎兵衛・ななかまど (講談社文芸文庫)

井伏鱒二・弥次郎兵衛・ななかまど (講談社文芸文庫)

中央線沿線の文士が、戦前・戦後を通じて、将棋と酒を友として集ったのが阿佐ヶ谷会。井伏鱒二太宰治三好達治、青柳瑞穂、木山捷平上林暁、外村繁などの文士がこの会に参加しており、彼等は「阿佐ヶ谷文士」などと称されていた。

青柳瑞穂は以前書評に書いたが今日は阿佐ヶ谷文士の中から木山捷平を取り上げようと思う。
本書は短篇10編と太宰治井伏鱒二についての素描を味わい深い文で飄々と書かれた木山捷平最晩年の作品である。
中でも若き日の太宰治との交流を描いた『太宰治』は太宰の意外な一面と、師と仰ぐ井伏鱒二の一言が作品に大きな影響を与えた様子が描かれており興味深い。また『井伏鱒二』の素描は木山捷平がいかに井伏鱒二を敬愛し尊敬していたかが滲み出ており、同時に井伏鱒二の深く温かな木山へのまなざしが描かれていて木山の筆に滋味が溢れる。
太宰治』から
昭和十七年阿佐ヶ谷会の文士達が奥多摩へ遠足に出かけた折り、遠足だというのに太宰は懐に十冊以上の岩波文庫を抱え、電車の中でそれらを読みふけっていたという。勤勉な努力家の太宰がそこにはある。また井伏鱒二と太宰が木山の家を訪ねてきたときのこと。井伏と木山が将棋をさしている間、手持ちぶさたの太宰は木山の本棚から一冊の高校生用受験雑誌、西鶴ものを「君、この本をちょっと貸してくれ」と言て借りていった。「とても一流文士に貸せるような本ではなかった」はず。ところがそれから太宰はまもなく西鶴の「武家義理物語」から材をとった「裸川」を書き、「新釈諸国噺」などの作品を続々と書いた。
また「津軽」を書くのに苦しんでいた太宰に井伏鱒二が「もしぼくが書くんだったら、ぼくが津軽を旅行するように書くがね」とぽつりと言った。その後「津軽」が出版されると井伏鱒二がぽつりと一言いったような要領で書かれていて「伝家の秘伝というものは、ああいう風にして教え、ああいう風にして受け取るものかと、感嘆これを久しゅうした」とある。まさに名言極まりない。

井伏鱒二』から
井伏鱒二木山捷平より六歳上。井伏の郷里は広島(備後)。木山は岡山(備中)。距離は驚くほど近いのである。木山は偶然実家で『金襴集』という漢詩のアンソロジーを見つけた。そこに井伏素老という名前に着目。それは井伏鱒二の父であった。その井伏の父の漢詩と『井伏鱒二選集』第七巻の『田園記』から漢詩訳を掲げる。
そしてついにあの名訳「サヨナラ」ダケガ人生ダを木山はこう結論づける。
『私はこれらの名訳を鱒二氏と父素老氏との共訳とみなしたいのである』と。
これは素老氏亡きあとのこととてつじつまがあわないのであるけれど、そこは木山も承知の上。父上の漢詩訳はじつに大らかで鱒二のそれとよく作風が似ている。つまり鱒二には父の漢詩、訳がいつのまにか血となり肉となっていたから「サヨナラ」ダケガ人生ダの名訳は父との共訳だと大胆な言になったのだ。
紙幅が足りなくなったのでそれらの漢詩と訳は是非じかにお読みいただきたい。なるほどと笑みがこぼれるに違いない。
鱒二を尊敬し、戦中戦後とお世話になった木山であるけれど疎開中に一度も鱒二の家を訪れなかった。そのわけは
『ハンカチにたとえれば、ひとのハンカチを汚い手でよごしたくない気持ち』とあらわしている。慎み深い男の含羞がそこはかとなく木山の底流には流れているのだ。

市井の人の何気ない会話をすくい上げ鬱屈した心に酒を注ぐ木山の味わい深い短編。太宰治井伏鱒二を囲む当時の阿佐ヶ谷文士達の人間味あふれる交流。それらを滋味深い筆で描いた木山捷平最晩年の渋い名作である。