散歩の魅力は何だろうか?
それは車に乗っていては見えないもの、味わえないもの、感じられないものを味わえることだろう。
自分の歩幅で自由気ままに歩けることはなんともいえない爽快感がある。
車にのっていて見過ごしてしまうもの。それは道端に咲いている花だったり、すれ違いざまにかわす挨拶だったり、ほほえみだったり。
大きな道でなく路地を歩く楽しみは格別なものがある。
夕暮れ時になると家々からただよう夕餉のにおいや音。
あ、ここの家は今日はカレーだなとか、お醤油のこげるような香ばしいにおいに,今夜のおかずは何だろう?と想像したりする。
また昼間は角々に丹精した花を愛でる楽しみがある。
家の前に丹精した植木鉢がありそこにはささやかな緑があり花がある様は心がなごむ。水遣りしている人と花を囲んでつかのまの花談義をかわすのも人情味があってよい。
すぐ近くなのに路地裏にまで足を運ぶことが少ない。
それは生活道路の違いからもあるけれど、路地の魅力に気がつかなかったからでもある。
路地には近代化されない昔の風情が残っていたりする。
おや?こんなところに?とおもうような場所に常夜灯があったりする。
お地蔵様が祭ってあったりする。よく見ると新鮮なお花が備えてあって赤い頭巾をかぶっている。近くの人たちがよくお世話をしているのだろう。
昔ながらの建築の粋をうかがわせるような門があったりする。
門のすかし模様の細工が素晴らしい。欄間職人のわざのさえがそこにはある。
また様々な音を拾う楽しみもある。
それは鳥の声だったり、子供たちの声だったり、生活音だったり。
そして緑の中をあるくと木にも様々なにおいがあることに気がつく。
いつも一本の木の下にくるとなんともいえない気高いような甘いかおりがしてしばらくそこで匂いのシャワーを浴びる。その木はさかきのような木だ。何と云う名前なのか分からないけれど、榊のような気がする。
また歩く速度はぼんやりと考え事をするのにふさわしい速度である。
景色を眺めながら考え事をしながら歩いているといくらでも歩ける。
突然いい詩が浮かんだりすることもある。
歌心がないので短歌はうかばない。
毎日の散歩はかかせない楽しみである。
老犬とともに夕陽を背に極上のひと時が過ぎていく。