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芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を再読した。
蓮の池をブラブラとあるいていたお釈迦様は、蓮の花の下にある地獄の底をご覧になった。
そこには、人殺しをしたり、放火したり、悪事を働いたカンダタという大泥棒が目に入った。
彼にはたった一つ善いことをしたことがあったのを思い出した。
それは踏み殺そうとした蜘蛛を、
「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。
その命を無闇にとるということは、いくらなんでも可哀想だ」
と蜘蛛を殺さず、助けてやったことだった。
善いことをした報いに、この男を地獄から助けてやろうと考えたお釈迦様は極楽の蜘蛛の糸を手にとって
地獄の底にまっすぐにおろした。
蓮池からお釈迦様が垂らした一本の蜘蛛の糸にすがるように、登ってきたカンダタは、途中まで登って、一息つき、ふと、下を見ると、血の池地獄にいた罪人達が糸を登ってくるのが見えた。
細い糸が切れてしまう!カンダタは、
「こら、罪人ども。この糸はおれのものだぞ。お前たちは一体、誰にきいて、登ってきた。下りろ、下りろ」
とわめいた途端に、糸が切れてしまった。
悪人でも、俗世で良いことを一つでもしたものには、チャンスを与えようと思ったお釈迦様の気持ちは踏みにじられたことになる。
この話は人間というものの心の底にあるもの、特にエゴイズムをよく表していると思う。
やっと手に入れた地獄から脱出できる唯一の細い糸は今にも切れそうである。
自分がぶら下がっただけでも切れそうな糸。
その糸にわれもわれもと登ってくるのを見たら、きっと驚いて、恐ろしくなるだろう。
切れそうな状態を恐れるのだ。
自分だけ助かりたいという人間の生か死の瀬戸際のエゴイズムである。
現実の世界でもある。ロッククライミングをして、同じような状態になる事故が起きる。
一本のロープにつながったクライマーが崖で宙吊りになる。
風が崖下から煽るように吹き、ロープは揺れる。
下にいる者が、自ら、ナイフでロープを切って崖下に転落。上にいた人が自力で岩に這い上がって助かる。
助かった人は生涯苦しむことになる。
もし、私がカンダタだったら。
私という人間が試される時だ。
窮地に陥ったものに、一本の糸が垂らされたということは、大いなるものが助けてくれることの啓示だと信じて
登り続けるだろう。
もし、蹴落として自分だけが助かっても、蹴落とした自分の行為に生涯苦しむことになりそうだ。
つまり、人間の良心の存在である。
助かっても、自分の「良心」が自分を罰するのだ。
それは血の池地獄にいる時の苦しみと同じか、それ以上のものかもしれないのである。
ただ、実際その場になったら、どうだろうか?
迷うことなく一緒に登っただろうか?
下から登ってきたものが家族だったら、子供だったり、伴侶だったら、迷うことなく一緒に励まし合って登ることだろう。
もしそれが自分をいつも苦しめてきたにっくきやつだったら・・。
おそらく、「下りろ!」とカンダタのように言うだろう。
それはエゴイズムでもあり、憎しみの究極のジャッジでもある。
人間というのはいつも迷うもの。
極悪非道な悪人でも蜘蛛の命を助ける「良心」があり「下りろ」と言うエゴがある。
迷う人間の心を軌道修正するのは「良心」という心の神なのかもしれない。