飛翔

日々の随想です

『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)

正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)は永平道元禅師(1200〜1253)の著作である。
道元が『正法眼蔵』を書き始めたのは、中国で如浄禅師の法を継いで日本に帰ってきてからのこと。
全百巻にするつもりが途中で病に臥して53歳で一生を終えた。
いつか『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)を読んでみたいと思っていたが、一巻でもきっとむずかしくて読めないだろうと思う。
今回読んだ本は入門書。
分かりやすく噛み砕いた入門書なのでアウトラインだけのものだ。
(月の時は必ず夜にあらず 夜必ずしも暗にあらず ひとえに人間の少量に関わることなかれ)。
月がでているからといって、夜とは限らない。夜は必ず暗いとは限らない。それなのにわれわれ人間はつい これはこうだという短絡的な考えをしてしまう。そのような分別によりかかって生きている。それこそ人間のキャパシティの狭さにほかならない。

私はいつも「頑張ろう」と頑張ってきた。
でも道元はその頑張りというものは、自分の分別で頑張っていると思っているだけだという。つまらぬ分別をすてて無分別になれと説く。
俗に禅問答といわれるけれど、道元が説こうとしていることはそうそう分かるものではなさそうだ。
なにしろ百巻もの巻物に書き付けたものをニ三日や、数年やあるいは数十年かけても分かるわけがない。
「四枚(しまい)の般若 世の常におこなわる行・住・坐・臥なり」
般若と云うのは悟りの智慧のこと。行・住・坐・臥というのはふだんの立ち居振る舞い。すなわち日常の生活すべてが悟りの智慧ということ。
日常平常のおこうなうことをおろそかにしてはならないということだろうか。
茶の道の一期一会にも通じているように思うのは間違いだろうか?
読んでも何一つ分からなかったけれど、なぜか胸のつかえがおりる気持ちになった。
小難しいことでなく、あるがままを受け入れて「平常心」をたもとうとすることなのかもしれない。