飛翔

日々の随想です

葵上

秋から冬にかけて能楽の各流派をはじめとして狂言、笛、鼓、太鼓などのお囃子の弟子たちの発表会が能楽堂で催されて盛んな頃となる。それに向けて稽古も厳しさが増す。
 今日のお稽古でも能楽堂での晴れ舞台に向けていつもより厳しい稽古となった。
 今日の稽古は「葵の上」。

「葵の上」と言えば嫉妬。
 六条御息所の生霊のシテが嫉妬にさいなまれ、段々高まっていく気持ちを舞いであらわす。最後に扇を叩き付け、着物を脱いでひきかつぎ葵の上を暗黒の世界へ引きずり込む光景を表現して素晴らしい。
「思い知らずや、思い知れ、恨めしの心や、あら恨めしの心や、人の怨みの深くして、浮き寝に泣かせ給うとも、生きてこの世にましませば、水暗き沢辺の蛍の影よりも光君とぞ契るらむ、…」と謡う。
しかしここが能のすぐれたみどころである。嫉妬に狂うさまを直接的にえがくのでなく、葵の上とはまるで関係ない蛍を追いかけたり、沢辺を見回す形で舞いを舞って表している。
明滅する蛍や、沢べの暗闇に御息所の心の深淵を覗く思いになるのである。全くここは白眉というものだ。
演劇の演出法はさまざまであるけれど、こうした内的、心のさまを明滅する蛍や観客には見えない沢辺の暗闇を探る様子にシテの心を投影する方法はすぐれている。

シテの謡う声、姿の美しさ、そこに能の真髄があるのではなかろうか。やがて御息所のシテはかぶっていた物をはねのけると、下からは美しい先ほどの面に変わって恐ろしい般若が現れる。しかし行者の数珠に打たれて解脱する。
この般若の面こそ嫉妬の面差しなのであろうが、これはやがて来るべき、悟りの道へ到達する過程を表しているように思う。

人間の心の中に巣くう嫉妬の念。オペラ、演劇、歌舞伎、能など、形式は異なるけれども、誰もが描きたい人間の底にあるおどろおどろした情念の世界なのであろう。そしてそれを見てなにかを感じる我々。嫉妬とは、人間と人間との永遠の絆を求めようとする魂のなせるわざなのかもしれない。

稽古とはいえ、この源氏物語のもっともおどろおどろした人間の情念を謡うのは面白い。

あの「日刊ゲンダイ<狐>の書評」でおなじみだった覆面の書評家「狐」が実は山村修さんだったことはつい最近世にでた。
その山村修さんは能楽の愛好家であり、お亡くなりになる前に実名で最後の遺作『花のほかには松ばかり』(謡曲を読む愉しみ)という本を出された。

「見る能」と並んで「読む能」があってもよいとし、舞台上の能の素晴らしさと読む謡曲の詞章の美しさは本質的に異次元の芸術体験であるとして、謡曲が読み物としていかに愉しく深いものかを描かれた。

実は何を隠そう私もずっと謡曲本を「読む愉しみ」として読んできた者のひとりであった。
謡曲には源氏物語平家物語、和歌を題材にしたものが多い。
謡い本を「読む」とき、読み物としてこんなにハイライトが濃縮されたものはないと思って愉しんで来た。

しかし、しかしである。
山村修さんが読み解いた「道成寺」は目からうろこの大発見であると驚愕した。
たった一つの詞章『花のほかには松ばかり』から、白拍子が途中で憑依したのではという山村氏の解釈を読んで以来、どう読んでも、あれはまさしく憑依以外のなにものでもないと思えてしかたがなくなった。

そうなると舞台の見方もちがってくる。
謡本からあれだけの読み解きをした人はいままでいただろうか?たった一行の詞章から劇的な解釈にいたるとは狐氏おそるべし!
 おそらく遺作の本のタイトルに「花のほかには松ばかり」としたのは山村氏がひそかに「ユリイカ」(われ発見せり!)と叫んだからではないだろうか?
 「 読み」の達人は最期に誰も読み解かなかった「憑依」(ひょうい)を読み解いて快哉を叫んだに違いない。
「読む」とはさらりと上っ面をなでて読んだ気持ちになることではない。
読めば読むほど面白く、年月を経て新たな読み解きがあったり、つまらなかった部分が年を経てはじめて理解できたり、味がわかったりするものなのだろう。
 それを山村氏の最期の遺作から受け取ることができたように思う。そう思うと能の稽古は別の楽しみができた。この「葵の上」の読み解きを山村氏に聞いてみたかったものだ。