飛翔

日々の随想です

能「蝉丸」


お能のレビューを載せてみようと思う。
 名古屋能楽堂での観能記の再掲載である。
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 名古屋能楽堂定例会は 
 能「蝉丸」(観世流)泉嘉夫、近藤幸江
 能「百萬」(宝生流)衣斐愛 
 半能「石橋」(観世流)古橋正邦、武田大志
 狂言和泉流)佐藤融
 という魅力的なプログラムで能楽堂は立見がでるほどの盛況だった。

能(観世流)「蝉丸」替え型

シテ:泉嘉夫(蝉丸)、シテ:近藤幸江(逆髪)、ワキ:飯冨雅介、
笛:竹市学、小鼓:後藤孝一郎、大鼓:河村総一郎

曲目:
蝉丸は天皇の第四皇子でありながら、生まれながらの盲目のため、逢坂山に捨てられる。
おなじく天皇の第三皇女である姉、逆髪(さかがみ)は髪が逆立(さかだって)生えた狂女として都をでてあちこちを彷徨する。

逢坂山に捨てられた蝉丸は琵琶と杖を手に泣き伏す。蝉丸は知人(博雅の三位)が作った藁家で暮らすことにする。
ひとりぽっちになって泣き暮らす蝉丸のところへ偶然姉の逆髪が出会う。
共に天皇家に生まれながら不運の二人の再会のシーンはこの能の山場。

たった一人盲目の身で山中に捨てられたさみしさを謡う場面はしんしんと見るものの心を打つ。

♪たまに訪れるものといえば猿の声だけ。袖をぬらす村雨の音をたぐりよせて琵琶を弾いても、声をあげて泣いても、雨の音を聞きたくとも、わら家の屋根では音も立てない。
月光がさしても目に見ることは叶わない。月にうとく、雨の音も聞くことができないわら家の暮らしは本当にわが身ながらもいたわしいことだ。

観世流シテ方重鎮、重要無形文化財、泉嘉夫師の哀切がこもった謡は万感胸にせまり、今日この能楽堂に立ち見席が出るほどだったわけがわかった。
 一方の姉、逆髪も皇女の身ながらも髪の毛が逆に生え、狂女とはやしたてられるおぞましさを憤る。
 

なんと深い理(ことわり)ではあるまいか。
勝者と敗者、健康なもの、そうでないもの、多数と少数、・・・
とても狂女のセリフとはおもえない。

 さて、シテの蝉丸役の泉嘉夫師は細い杖にその全人生を傾けるようにはかなげで、山中に捨てられたときなどは、その頼る杖も、菅笠も投げ捨てて泣きふす場面は胸が痛くなった。
一方シテ逆髪役の近藤幸江師は高貴な人が着る色の緋の長袴に白地の能衣装がこのものさみしい能に一瞬の華やぎを添えるけれど、それがかえって社会的に孤立した姉弟の転落のさみしさを際立たせて能衣装の妙をうかがわせた。近藤師の舞の美しさと気品のある声が能楽堂にしみじみと響いて感動。

 この能は高貴な生まれでありながら、片や盲目に生まれ、片や逆髪(さかがみ)で狂女といういたわしい運命に泣く姉弟の物語である。こんなにも悲哀につつまれたストーリーはないようだけれど、見方によれば山中に捨てられた盲目の蝉丸に全ての悲哀をこめ、姉、逆髪に世の中の順逆の不条理を訴えさせたものではないだろうか。
 また狂女と世の中には見えても、実は逆境にもまれて抗う者の姿であって、不運な弟をいたわり、慰め、世の中の不条理にいきどおる気高い女性にもみえる。
 この「能」ができた世の中も、現代も、少しも変わらないような気がする。つまり弱いものや、身障者、老齢者、声をあげにくい人をいじめ、のけものにする。この不条理。現代のいじめとなんら変わりがない。
 山中にひとりぽっちで琵琶を弾いて暮らす蝉丸と不幸を同じくする姉の逆髪の運命に、しみじみとさみしさが胸をうつ能であった。

 これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬもあふさかの関

は蝉丸作である。この歌の意味をしみじみと考えながら能楽堂を後にした。

※泉嘉夫、近藤幸江のお二人は私の観世流能楽の師匠です。