飛翔

日々の随想です

『愛猿記』

 上野動物園で狼の檻の前で口笛を吹いたら尾をふって寄ってきて、子母澤寛の手をなめたとか、戦争中文藝春秋社の前あたりに凶暴な猿が箱にはいって歩道に出されていて白い牙で通行人をおどしていたという猿に、声をかけると青いはらを出して仰向いて腹をかかせたという逸話があるほど動物好きの作者。

その希代の動物好きが書いた動物の随筆である。


 先ずは表題にもなっている「愛猿記」は凶暴で誰の手にも負えない猿、とうとう解剖室へ連れて行かれ殺される運命の猿を引き取った作者があっというまに猿に好かれ、ついには芸までしこむほどになった。そして一緒に風呂へはいりと猿との生活の一部始終が書かれていてほほえましく読み進めるうちにいつしか迎える死の日となる。どんな動物でもその死と向かい合うのはつらいものである。


 そんな猿との日々やカラスの話「カラスのクロ」と続き「ジロの一生」という飼い犬の随筆になってとうとうこの「ジロの一生」で私は嗚咽をこらえることができなくなってしまった。
 愛想のない尾をふることもない犬ジロ。この犬のあまりにもけなげでしかし悲惨な末期に涙をこらえようとしてもこらえることが出来ない、ついには声をあげて泣いてしまうような話だった。
これを書いていても涙がでてくる。
 犬でありながら耐え忍ぶ心と、目立たないようにさりげなく生きていく姿、けなげさに胸を締め付けられるのである。しかも飼い主の勝手さで悲惨な最期を迎える姿に嗚咽がとまらなくなった。こんな悲惨な最期を迎えた犬の一生を私は知らない。

 この「ジロの一生」の次は「猿を捨てに」である。
 空襲で防空壕に猿と一緒に入った家族は近隣の住民から非難されることになった。そこで猿を家に繋いだまま家人は防空壕に避難するのだけれど、猿をたったひとりぽっちで鎖につながれたまま焼け死にさせるにはしのびなくなった作者は猿を捕まえた富士山の麓に連れて行ってそこへ放すことにした。冨士の麓について首輪と鎖を解いて放す。森の奥へ一度は行く猿。帰路へつこうとする作者の後ろからぱっと肩へ飛び乗る猿。
 森へ返そうとする作者は「さ、暗くならないうちに早く行くんだ。わからなかったら、どこかの一番高い木のてっぺんへのって、声限りにみんなを呼んでごらん。さ、元気をだして行け。きっと、そんなに遠くないところに、仲間がいるから」と追いやる。
 そのたびに背中から肩に飛びつく猿。
 一緒に捨てに行った大山君は、猿のほうを見て、ぽろぽろ涙をこぼしながら「おう。三ちゃんや(猿の名前)。お前も、焼け死んだってその方がいいやなあ」といった。
猿は私に抱かれたり、背負われたりして、また裾野の村へ帰ったときは、もう、うっすらと日が暮れかけていた。
と続くのである。

 なんとも情愛がこもった美しさが文のすみずみまで行きわたっており胸を打つ。こうして動物とのかかわりあいを深々とした文が綴られていて人間の優しさ、生きとし生けるものへの慈しみをしみじみと思うのであった。

 子母沢寛の著作を今まで読んだことがなかった。『新撰組始末記』は素晴らしい作品だと聞いたことがある。
かの司馬遼太郎がネタをお借りしますと子母澤氏に挨拶しに行ったとか。

初めて読んだ子母澤寛作品。感涙にむせんだ名随筆でした。