飛翔

日々の随想です

「見巧者」(みこうしゃ)と「芸」


人間国宝野村万作 芸と人生を語る」の講演を聞く機会があった。。
 会場に着くともう万作先生はいらっしゃって招待客などに挨拶をしていた。羽織袴の着物姿に学者のような風貌は気品にみちて鶴のよう。
 会場は立錐の余地もないほどの超満員。さすが人間国宝芸談を聞くとあっては見逃すわけにはいかないという人ばかり。
 聞き手は早稲田の後輩で万作先生の弟子でもある林和利さん。
 過去に演じたビデオを見ながら芸談をうかがうという趣向だ。
 内容は狂言の大曲「釣り狐」の苦労話やご子息の萬斎さんのことなど多岐にわたった。万作氏の祖父・故初世野村萬斎がなくなったとき、まだ幼かった万作氏が追悼の一句を詠んだとか。
その一句:おじいさま灰になっても家にいる
だったとか。
 現代の狂言について万作氏はこういう:
「げらげら笑わせるのが狂言ではない」「その場で笑うことにこだわるとおしつけがましい芸となってそれは芸でない」
「笑みの中に楽しみがある」そういう芸をめざす
という。
また観客についても「見巧者」(みこうしゃ)になってほしいという。つまり見るほうも演じるほうも巧者であるなら、芸というもは濃く深くなるという。
この言葉はいろいろな芸術や文化にもあてはまる深い言葉のように思った。
いまのお笑い芸人は「芸人」とよばれるような「芸」はないと思う。
それはお笑い芸人の芸の磨き方が安易であると同時に観客があまりにも簡単に笑ってしまうからでもある。
つまり芸もない芸人が舞台の上で裸になる。観客はたったそれだけで笑うのである。芸人が客をののしる。ののしられた客はまた笑うのである。こにはなんの笑いのセンスも芸もないのである。
また文化においても、小説や短歌や詩や俳句の世界においても万作氏の言葉は示唆にとんでいるとおもう。つまり、読者の受けをねらうために自分の(言葉)を低くしてしまう。読者に合わせてしまう。そうではなく、作者も読者も共に深く濃い文化をつくっていくようにしないと文化の質は衰えていくのではないだろうか。
 万作氏は「げらげら笑わせるのが狂言ではない」笑みの中に楽しみがないといけないという。
 動きの烈しい演目の場合、激しさの中に一瞬静を取り入れる。そこに奥行きがうまれるという。
 止まっていてもそこに悲劇があり、悲劇の中に喜劇を含むという。
 止まっていてもそこに芸がある。静寂のなかの芸の深さである。

芸の深みというものは底知れぬものがあるのだなあと芸談を聞きながら思った。