飛翔

日々の随想です

『あんつる君の便箋』

>映画やテレビなどでは、死の淵にある人に泣きすがるシーンが多い。私が母のなきがらに対面したときは、その死を受け止められずに呆然と立ち尽くしていただけだった。ある日、散歩していた林道で一輪の花をみたとき、突如として涙があふれてとまらなくなった。そのとき、はじめて「母さんは死んでしまったのだ」と悟って号泣した。それは母の死から十数年も経った日のことだった。母は路傍の花にも、雑草にさえ「可愛いわネ」と話しかける人だった。十数年間私の思考の淵には、母への想いが深く沈殿していた。無意識下に人は心の中で悲しみと問答をしているのだと思う。打ち消しては思い出し、思い出してはまた打ち消してを繰り返しながら、ある日突然その死を現実と認めることがおきる。

 そんな想いを率直に語って声をあげて泣いた人がいる。古本市で見つけた一冊の本から:
 安藤鶴夫著『あんつる君の便箋』(論創社
わたしのうちでは、代々、親と子が、まるで、きょうだい、か、ともだちのようになる傾向があるようだ。(略)母に対しては、わたしはある時期、恋人のように愛し、またある時期、まるで女房かなんかのように、したしんだ。わたしのうちは、愛情をむきだしにしないではいられないたちで、とくに母親は、わたしの頬を、ほんとうになめた。そうしないではいられないひとなのである。母親の、あまりに、がんじがらめの愛情にわたしはイキがつまり、両手を上へ上げて、うるせえッ、と思ったときがある。
 母親が死んで、なん年かたった時、、わたしにはもう子どもがいたのだけれど、ある日、突然自分にはもう、母親がいないのだということを思いだして、声を出して、大泣きに泣いたことがあった。
 それは、あるとき、わたしが茶の間で、ごろッと、うたた寝をした時である。寒くなって、目がさめた。かみさんも、子どもたちもいるのに、誰ひとりとして、うたた寝をしているわたしに、なにかを掛けてくれる者がなかったのである。寒くなって、ひとりで、目をさまして、わたしは急に悲しくなった。母親が生きていたら、そんな時、かならず、わたしのからだに、なにかを掛けてくれたのを思いだしたからである。そしてその母親は、わたしには、もういないのだ、と思った。(略)そしたら、突然、わたしはひどく、かなしくなった。
 それにはまた、そんな時、母親が、そんなことをしてくれると、わたしは、いつでもうるせえな、と思ったりしたもので、またそのことも思いだしたのである。そんなことが、いッぺんにこんがらかって、わたしは大声をあげて、泣いた。そろそろ、五十面をさげようという頃の話である。(「親と子」昭41.2)

著者の安藤鶴夫さんは「あんつる」さんと敬愛され親しく呼ばれた演劇、演芸評論家としてその名を馳せた人でもあるが、昭和三十九年『巷談本牧亭』で、直木賞を受賞した作家でもある。この随筆集では父親や母親のことを滋味あふれる筆致で書かれていることが多いが、父は義太夫の八代目竹本都太夫である。

人間とは因果なもので、「あんつる」さんも言うように、生きているときには母の愛情が「うるせェ」などと思い、実際うとんじたりする。私も中学生になったばかりのころ、母があまりうるさく世話を焼くので思わず「うるさいわねえ」と言って母を押した。ちょっと押しただけなのに母は後ろにずずずずっずとすべるように下がって転びそうになった。母も私も一瞬の出来事に驚いた。今まで口で反抗しても、手荒に母にはむかうことなどしなかった私だからだ。可愛い、可愛いと溺愛してきたわが子に手荒にされたショックは大きかった。
母は「そう」とさみしそうに言って、台所に歩いていった。

私はあんつるさんが五十歳になっても母を思って、しかも、「うるせえ」と言ったことなどを思い出し、悲しく胸を詰まらせた胸中がわかって読みながら涙がでた。

 引用抜粋の文でも気がつくと思うが、この独特の「ひら仮名」の文は、あんつるさんの柔らかでしなやかな生き方にも通じているようだ。短い文の中にこれだけ情感あふれた人間模様を描くことができるのは「あんつる」さんならではの随筆だ。

 こんな風に肩の力を抜いてふうわりとした「ひら仮名」の文で埋め尽くされたエッセイは書きたくとも書けないものだ。

※カバー装丁は昭和三十九年『巷談本牧亭』で直木賞を受賞したとき、お祝いのパーティで参会者にくばられた便箋である。カットは木村荘八が描いたもの。