飛翔

日々の随想です

忘れられる過去

詩人荒川洋治さんの珠玉のエッセイだ。
どの言葉も詩のようで思惟に富んでやわらか。

「畑のことば」から抜粋:

年をとるとどうなるか。ことばとは別のものになる。・・・省略。
声をかけられて、たとえば田畑のなかから、ふと立ちあがるとき、顔がみえなくても、そこにはいわくいいがたい表情があるものである。また何もしていないときでも、そこから、そのひとから、静かな声のようなものが届けられるような、そんな感じになる。

人が放つ言葉の意味合いに荒川さんは言及する。
おとなが発する言葉に感心し、
積み重ねられた年月からほとばしる博識に感嘆する。
言葉が人間の中心にあって、主役になって働くことにたいして。

そしてさらにおとなになるとどうなるか。
つまり年をとるということ、
年をとるということは、その言葉の持つ意味合いと働きが別ものになるという。
即ち、抜粋として挙げたこととなると荒川さんは思うのである。

つまりことばよりもやわらかなもの、ゆたかなものが、新しく加えられるというのだ。
それは人生が、その仕上げに向けて創り出す光景のひとつであると。

年老いた父と母が庭でくつろいでいるときなど、互いにかわすまなざしの中にことばよりもやわらかなものをみいだすことがある。

言葉とは言の葉である。
四季の移ろいのように人生は青き春から朱夏へ、そして白秋から玄冬へとたどる道すがら、常に言葉はその中心となり主役を演じ、繁る葉であり続ける。
しかし、玄冬を迎える時、その言の葉は枯れるのではなく別のものへと昇華して行くのだろう。

もはや言葉はたんなる言葉でなく、それよりもやわらかでゆたかなものへとたゆたって行くのだ。

何と美しい言の葉達であろうか。

3年の間に発表したエッセイの中から74編を自らが選んだものである。
どれも氏のやわらかな詩人としての言葉が紡ぎ出すもの達。
座右の友として折に触れて読みたいエッセイ