飛翔

日々の随想です

機知にとんだ会話


 ユーモアが分かる人と分からない人とでは会話の弾み具合が違ってくる。
 また言葉のもじりとでも言おうか、言葉遊びや掛詞のシャレなどを交えた会話ができる人は楽しい。ユーモアのセンスと云うのはその人のセンスにも通じる。

熊の敷石 (講談社文庫)
堀江 敏幸
講談社
 フランスの寓話を土台にした洒落た構成が際立つのは堀江敏幸の作品『熊の敷石』である。
 「熊の敷石」とはラ・フォンティーヌの寓話で、親友の老人の寝顔にハエがたかるのを追い払う役割の熊が、どうやっても追い払えない蝿にごうを煮やして敷石を投げ、ハエもろとも親友の頭までかち割ってしまった熊のお話。
この訓話から転じて、「熊の敷石」とはいらぬお節介のこと。
 駄洒落を頻発されると「うえー」と閉口するけれど、さりげなく掛けことばなどを弄する人に会うと「ん!」と思わず興味をそそられる。
 こちらも同じようにさりげなく掛けことばで返すと相手も「ん!」と反応する。
 ではこんな球を投げたらどうだ?とばかりに別の変化球を投げてきたりする。そんな言葉のキャッチボールができる人に出会うチャンスはあるようでない。
 言葉に対する感覚が似ている人は案外好みも似ていたりする。バッグから取り出したペンが自分が持っているのと同じこだわりの逸品だったりしたら、もう百年の知己に出会ったも同然。
 では生活を共にする相手の場合はどうだろう?似たもの同士だと説明を要さない分スムースにことが運ぶ。しかし、発見が少ないかもしれない。テイストが似ていないと反発や反感を呼ぶことがあるけれど、自分にないものに対する敬意が生じたりする。
 人間関係と云うものは複雑なので似ているからいいともいえないし、悪いともいえない。
 つまりお互いを芯から尊重できるようになるまでは時間がかかり育みあうものなのかもしれない。
塩一トンの読書
須賀 敦子
河出書房新社
 須賀敦子さんのエッセイに「塩一トンの読書」というのがある。
 これは須賀さんのイタリア人の姑が言った言葉で「ひとりの人を理解するまでには、少なくとも一トンの塩を一緒になめなければだめ」から来ている。

 「一トンの塩をなめるっていうのは、嬉しいことや、悲しいことを、いろいろと経験すると言う意味、つまり一トンを舐め尽くすには長い長い時間がかかる。気が遠くなる程つきあっても、人間はなかなか理解しつくせないものだっていうこと」

 とある。
 まさに言い得て妙。
 人生を楽しいものにするためには少なからず機知に富んだ会話ができる、ユーモアのセンスはほしいものだ。