飛翔

日々の随想です

古本と喜多六平太と6ペンス

古書店でみつけた名人能役者喜多六平太の『六平太芸談』を読みふけっている。

この本は初版は昭和十七年に刊行され、その後、二十七年に改版刊行されたけれど、今は絶版になっている。
このたび手に入れたものは喜多六平太師が満九十歳の記念として再刊行されたもの。
渋いこげ茶色のつむぎの布で作られた装丁で、題字は前田青邨画伯のもの。

見返しの絵「石橋」は皇居内壁面を飾る作品を制作したさいに、喜多氏をモデルとしたもので大変貴重な書だ。


古書というものは前の持ち主の痕跡が残っているようでは価値がないらしいけれど、この本はなんと喜多六平太師ご自身の墨蹟あざやかな署名がしてあった!

さらに後ろには昭和四十六年一月十七日に喜多六平太師死去の新聞の切抜きがはりつけてあった。

おそらく能を愛した人がこの本をお買いになり、その際に喜多六平太師から御署名を賜ったものに違いない。そしてお亡くなりになったときの死亡記事を丁寧に貼り付けてあるのはきっと心から偲んで貼ったものだろう。

こんな立派な本を古書店に出してしまったのは前の持ち主がお亡くなりになったあと、ご家族が手放したものかもしれない。

古書を手にするとき、その本の前の持ち主に想いがいたることがある。
そんな想いは私だけではないに違いない。

私が愛するギッシングの書に『ヘンリー・ライクロフトの私記』がある。

その中でライクロフトがいかに本を愛していたかがわかる箇所がありいつ読んでも感動し共感を覚える部分.

『私の持っている書物は本来ならいわゆる生活の必需品を買うべきお金であがなわれたものだ』
あるとき古本屋で一冊の本に釘付けになったライクロフト。
その本は6ペンスだった。
6ペンスはライクロフトの全財産だった。
『それだけあれば、一皿の肉と野菜が食べられるはずであった。』『ポケットの銅貨を指先で数えながら、私の内部に争う二つの欲望に苦しみつつ舗道の上をうろうろ歩いた。』ついにその本を手に入れたライクロフト。

本の最後のページを繰ると鉛筆書きで「1792年10月4日読了」とあるのにきがついたライクロフト。
『ほぼ百年前の、この本を持っていた人はいったいだれなのだろうか。自分の血を流し、命をけずる思いでこの本を買い、私と同じくらいこれを愛読したある貧乏で熱心な研究者が想像したくなるのだ。どれくらい私が愛読したか、今やちょっとやそっといえそうにない』
とある。

一読書子である私にもこのライクロフトの気持ちはいたいほど分かる。
少ない小遣いをにぎりしめて本屋の前をうろうろどれだけしたことか!
買おうか買うまいか散々悩んだあげく、買わずに本屋を出てすうメートル歩き、引き返すともうその本が売れてしまっていたときの無念さと自分の買わないでおこうとしたその意気地のなさにほぞをかむおもいがどれだけしたことか!


古本屋でみつけた貴重な初版本『六平太芸談』の最後のページに貼り付けられていた喜多六平太師の死亡記事に私はこの本を愛読したに違いない前の所有者の愛惜の情を汲み取ったのである。

喜多六平太師ご自身の墨蹟あざやかな署名入りのこの本の縁に想いを馳せつつ故人を偲ぶのであった。