飛翔

日々の随想です

昭和のお正月

お正月の思い出

子供のころ、お正月は、こないほうがよいと思うほど家中が忙しかった。
 年始の客が,ひきもきらず、我が家はてんてこまいの正月三が日を過ごしてきた。
 「猫の手も借りたい」とはまさにその時の状況をさし、小学生の私も借り出されてお手伝いをさせられた。三姉妹の末っ子だった私は玄関の掃除と門まわりの水うち、台所のお皿洗いとお客様の靴を揃えること、運転手付の乗用車でみえるお客様には待っている間の運転手さんに熱いお茶を出し、御年賀のおひねりを差し上げ、家の中にとってかえるとビールやお酒のお運びなどをさせられていた。


 大晦日、母は五人家族の三段重ねのおせちのほかに、お年始の客用のおせちをいくつも作り、オードブル作り、グラスやさかずきの準備におおわらわであった。<
 また家中のお花を活けるのも母の役割だった。玄関ホールの花は豪華に、応接間には真っ赤なベネチアングラスの花入れに胡蝶蘭や洋花を華やかに活け、八畳二間をぶちぬいた和室の床の間には伝統にのっとって、柳の枝を一結びした「結び柳」を床柱の上から床(ゆか)まで長くたらした。子供心にその長くやわらかな曲線の美しさにみとれたものだ。
 
 「結び柳」

 部屋には客用に「手あぶり」と呼ばれる小ぶりの火鉢がいくつも準備された。



 闇のように黒い漆が塗られた火鉢には、純白の化粧灰が埋められ、中央には真っ赤におこった炭という、しつらいだった。黒、白、赤という取り合わせの妙は実に見事であった。また午後の日差しが障子にやわらかくさしこむ佇まいは端正で和室の美を極めていた。

 紅白歌合戦が終わった頃、母はやっとすべての準備を終了させすっかり冷え切った手と足を炬燵で温めるのだった。しまい風呂に入った母は一年を感謝しつつも最後の風呂場をたわしで入念に洗ってから寝るのが常だった。
  翌日のお元日には家族全員、斎戒沐浴(さいかいもくよく)し、真新しい下着と衣類に着替えて朱塗りの屠蘇器から一人ずつ盃をとってお屠蘇を注いでもらって飲む。食卓には寿の箸袋に入れられた箸が用意され、今年の抱負を一人ずつ言っておせちを頂く。

 父は大島の羽織と着物を着て「おめでとう」と新年の挨拶をし新しい年が始まるのだった。

 父はお屠蘇がきいてきたのか陽気になって「そろそろ子供たちに玉でもぶつけてやろう」といい始める。「わ〜い、ぶつけて!」と私は大はしゃぎして「お年玉」をもらうのだった。

喜んだのもつかの間、やがて続々と訪れる客の接待で大わらわになるのだった。
 立場上何十組と仲人をしてきた父と母は子供づれの年始客にはおもちゃやお菓子を、夫婦にはお年賀の品を持たせて帰すので、その品々を間違えないよう渡すのも一苦労だった。

 客が帰った後も台所は戦場のようになっている。洗う者、拭く者、次に来る客の準備と殺気立っている。客が一度にやってくると八畳二間をぶちぬいた広間と応接間だけでは足りず、家族のくつろぐ茶の間にも座っていただくことになる。
 そんな時、おっちょこちょいの私が料理をひっくり返そうものなら姉たちからこっぴどく叱られ、つくづくお正月など来なければよいのにと思うのだった。

 そんな息つく暇もない忙しさではあったが、母はただの一度も愚痴をこぼしたことがなかった。一方、父は要職から離れるにつれ客が年々少なくなると寂しそうだった。父にとってはお正月は晴れがましいことだったのだろう。そして母にとっても、訪問客で賑わうお正月は、苦学してゼロからのし上がった父を支えた自分への目に見えるごほうびだったのかもしれない。
 門の外に黒塗りの乗用車が列を作っていたあの正月の風景は、何の後ろ盾もなく無一文からのしあがり、激動の昭和を生き抜いてきた父と母の輝ける「正月」だったにちがいない。