飛翔

日々の随想です

川柳と人間の悩みの種

 川柳の三要素は「可笑しみ」「穿(うが)ち」「軽み」だそうな。
 「可笑しみ」は分かるとして「穿(うが)ち」は何だろうか?一つの言葉で多くを語ったり、的を得た表現をしたりすることという。
 日経新聞のコラムによれば、「穿ち」の例をこう説明している。
 『仲直りほんの女房の声となり』
 この句の「穿ち」は「ほんの」にある。くどくど説明しないで読者に女房の姿を想像させる。これを「やさしい女房」「素直な女房」とうたってしまってはいかにも説明調。「ほんの」というたった三文字が想像をかきたてる。

ということだそうな。

最後に「軽み」は一番難しそうだ。
芭蕉が「わび」「さび」の芸域から最後に到達したのも「軽み」。
茶の湯の世界の「三畳台目」のような茶席をいうのだろうか。
茶の湯でも最後はたったの三畳ほどの茶席で客と亭主とが心を通わせあうことだけに終始した枯れたものに行き着く。素朴で簡素。しかし、奥行きのある深い境地のようなものだろう。
なんでもないことを何でもなくうたうのが味があってこれを「軽み」というとある。
川柳といい、茶の湯といい、人生といい、「何でもないことを、何でもないようにする」ことが如何に難しいことか。
どうしたって人間は目立とうとしたり、欲が先走ったり、文を飾ってしまったり、自分を必要以上に押し上げてしまいがちだ。
つまり、「在るがまま」の自分から遠くなってしまうのだ。そこから悩みや苦悩のたねが芽生えるのだ。
川柳はそう考えるとなかなか味のあるものだといえよう。