第38回大佛次郎賞受賞作品である。
著者の司修は、戦後を代表する文学作品の装画・装幀を手がけてきた画家であり川端康成文学賞、毎日芸術賞を受賞した作家である。本書は著者が、手がけた装幀にまつわる文学者との交流を描いたものであるけれど、そこには本のタイトルにもなっている「本の魔法」でいっぱい。著者はあとがきで:
本という存在は魔法である。タイトルの『本の魔法』とは、本を魔法にかけるのではなく、本の魔法にか かってしまったことである。
とある。古井由吉、武田泰淳、埴谷雄高、島尾敏雄、中上健次、江藤淳、三島由紀夫、森敦、三浦哲郎、真壁仁、河合隼雄、松谷みよ子、網野善彦、水上勉、小川国夫などの作家の装幀にまつわる作家との交流が映像を見るように、各作家の体温や酒の臭いや、作品が生まれるまでの作家の想いまでが伝わってくる。
本の顔でもある装幀は作品の奥の奥まで読み込んでから作り上げるもの。つまり深読みすることだ。
作者は「テキストを深読みしてかえって不興を買うこともあった」とあるが、本を読む醍醐味はなんといっても深読みにあるといっても過言ではないだろう。
昨今の電子書籍が本来の紙の本を凌駕しそうだという懸念はこの一冊で見事に打ち消してくれた。
江藤淳『なつかしい本の話』では、こう語られていて膝を打った。
本というものは、ただ活字を印刷した紙を綴じて製本してあればよい、というものではない。
つまり、それは、活字だけでできあがったいるものではない。沈黙が、しばしば饒舌よりも雄弁であるように、ページを開く前の書物が、すでに湧き上がる泉のような言葉をあふれさせていることがある。その意味では、本はむしろ佇んでいるひとりの人間に似ているのである。
また本の本当の魅力について江藤淳の本から引用されている部分には多くの読書子がきっと共感の歓声があがりそうだ。
かつて私の心に忘れがたい痕跡をのこし、そのままどこかに行ってしまった本のことを考えていると、表紙のよごれや、なにを意味しているのかわからなかった扉の唐草模様、それに手にとったときの感触や重みなどが、その本の内容と同じぐらいの深い意味を含んで蘇って来る。
これは本というものの本質をよくあらわしている。本とはそういうものだ。他のモノにはあてはまらない人間らしさのようなものが存在する。「表紙のよごれ」など、今の古本屋事情からするとあってはならないことだが、懐かしい本であれば、あちこちが敗れて、角がまるまっていたからこそ、なのだ。
これは蔵書として本棚に入れておく一冊となった。