お能(謡曲、仕舞い)の稽古では「中之舞」を練習している。
中之舞とは多くは女性が舞い、その名の示す如く、速からず、遅からず、中庸を得た優艶な舞いである。
笛を地として大小鼓で囃す。太鼓入りのものもある。
つまり楽器は笛、大小の鼓の伴奏(囃子)で舞うのである。
稽古のときは笛方も、鼓方もいないまま稽古する。つまり伴奏がないまま舞う。
そこは歴史ある能。
伴奏を口三味線ならぬ、口囃子でするのだ。
笛の音を擬音化するとたいていの人はピーヒョろろというだろう。
そう。その通り。
つまり中之舞は笛を地とするので口で笛の擬音をだすのだ。
♪オヒャーーーーラ
オヒャ ヒュ イ ヒャーリゥヒ
オヒャ ラーイホ −ゥホゥヒ
オヒャ ヒュイヒャ −リーゥヒ
と口による擬音の伴奏で舞う稽古が続く。
未熟な私はどこのオヒャ だかヒュイヒャ −リーゥヒだか混乱して訳が分からなくなる。
実際の能面の目はほとんど光が見えない小さな点でしかない。
その面をつけて舞うのであるからよほど稽古を積んでいないととんでもないことになる。
しかも囃し方(笛、鼓、太鼓)との申し合わせ(リハーサル)はたったの一回こっきりなのだ。
このリハーサル=ゲネプロのとき、たとえ間違ったとして、中途でやめることはしない。最後まで続けるのだ。もう一回やってくださいということは許されない。
厳しい一期一会の申し合わせ(リハーサル)だ。
稽古に来ている人は何十年と続けているセミプロのような人が多い。
大學ノートにびっしりと稽古ノートをつけている。
また謡いの本をコピーしてそれにもびっしり書き込みがされている。
お能の稽古というと優雅ねえなどといわれるけれど、とんでもない。
大枚はたいて何百万もする車を何回も買い替えている今の若者のほうがはるかに驚きの世界だ。
地道に何十年とコツコツと稽古して、研究ノートをつけ、ひたむきに打ち込んでいる姿をみると「優雅」などという知ったような口をたたく人は何の根拠でそんなことをいうかしらと思う。
泣きべそかきながら通う能の稽古。
我が家で練習していると「浪曲」だとか「ご詠歌」だとか、家族みんなで私をけなしてくれる。
愛犬も時々、膝の上から逃げていくのでやはり私の謡いはへたくそなのだろう。
今日も口三味線ならず口の笛擬音で舞の稽古をする。