毎日、脅されるように消費電力と需用電力がニュースに出るようになった。そんな中、昨夜は開け放たれた窓をすべて閉めて寝るほど涼しい夜だった。
この炎天下さすがに植木屋が庭の剪定に来るのを引き伸ばしに伸ばしている。そのため、庭は今やジャングル状態。外から塀越しに中がみえないぐらい、うっそうと庭木が繁って、どこのお屋敷かと思う風情になった。ものは言いようだが、庭木が繁りすぎてあばら家に、手入れが行き届かない木がうっそうとしげっているだけだ。
我が家は平屋なので二階建ての近所の家からみおろされている感じになる。近所の家の人が引っ越して開口一番、「毎日お庭をみせていただいております」と。
二階の部屋から我が家の庭が借景となっているようだ。うっかりビキニ姿で日光浴も出来やしない。
もっとも、見たほうから目をそむけられそうだが・・・。
日光浴と言えば、「ぎょうずい」と言う言葉はもう死語になってしまった。小さな家に、小さな庭。そんな庶民の夏の涼といえば、一昔前は「行水」(ぎょうずい)だった。庭にたらいを出し(たらいも死語だ)そこに水を張る。外で水を浴びるのはさながらささやかな露天風呂の気分なのだ。
江戸時代の小話などには、塀のふしあなから美女がぎょうずいする姿を覗き見する様子がでてくる。
シャワーを浴びる姿より、肩ごしに水を浴びる半身の女性の姿は浮世絵にでてくるようでなまめかしい。
女性の美しさは完璧なかっこうよりも、不均衡な姿のほうが美しい。それは有名な「見返り美人」の姿のように。半身になって振り返るおぼつかない姿は、はんなりとして美しい。
何もかも超越した※久米の仙人でさえも、美女の行水姿に目がくらんで空から落ちてしまう。
残念ながら今や、たらいならぬ、ビニールプールで行水しているのは幼児だけとなっては、仙人も空から落ちることはない。
世の中には粋な御仁がいらっしゃって、こんな句を。↓
行水とシャワーの違ひ知る臍(へそ)ぞ
(増山山肌(ますやまさんき)「知命の譜」所収)
※久米仙人(くめ の せんにん)は、久米寺(奈良県橿原市)の開祖という伝説上の人物。
『久米寺流記』には名を毛堅仙と記されている。久米仙人に関する話は、仏教関係の諸書、あるいは『今昔物語集』『徒然草』『発心集』その他の説話・随筆など、多くの書に記述がある。
天平年間に大和国吉野郡竜門寺の堀に住まって、飛行の術をおこなっていたが、久米川の辺で洗濯する若い女性の白い脛(はぎ)に見惚れて、神通力を失い、墜落し、その女性を妻とした。