飛翔

日々の随想です

女神さまって?

こんな話がある。

 Aさんが駅の改札付近を通ろうとしていた時、目の前をひょこひょこと体をかしげながらあるいている小柄な女性がめについた。
 半袖がひらひらと揺れている。
 改札を通るとき、その女性は口でパスを出して改札にタッチして出て行った。
 
 それを見ていたAさんはこう思った。

 「何か、敬虔で偉大なものに近づいた衝撃を感じた。私は五体満足なのに、なぜか不満足!改札を通過して ふっと見たら もういない。乗った私鉄の電車の中でドア越しに外を見ていると何故か涙が溢れでてきた。次の駅も、その次の駅までも止めどなく涙で景色が曇った。あの女性は、私の女神様だったのかもしれないと思った。」

 この話を聞いて多くの人は「いいね」と思ったようだ。

 でも私はこの話をわざわざブログやほかの大きなサイトに載せた理由が理解できないでいる。
 その理由は、「私は五体満足なのに、なぜか不満足」
 「涙で景色が曇った」「私の女神さまだったかもしれない」

 この三点に頭をかしげてしまった。
 身体に障害がある人にとって、健常者と同じように暮らすことは不自由なことがあるかもしれないけれど、当たり前にごく普通に暮らしているのだ。
 そして周囲の人は不自由なことがあったら、手をかすのは当たり前のこととして生活している。
 
 五体満足と自分を思い、障害がある人を五体満足の自分と比較して(無意識に)、彼らがあたりまえとしていることに涙を流す。
 なにか変だ。いたわりたいとか、さぞかし不自由なのだろうなあと誰しもが思うけれど、障害がある人にとって、普通にしていることに対して涙を流されることこそ、辛いことはないと思う。
 普通でいたいのに、涙を流され「私の女神さま」だと思われる不快感を思う。

 もうひとつ、私が見た体験談を書こう。
 英国でバスを待っていると、パンクロックの格好をした若者が同じようにバス停でバスを待っていた。
 頭はとさかのようにしていて、びょうをうちこんだ革ジャンを着込んでいる。
 そこに車椅子の老人がやってきた。バスが滑り込むように入ってくると、そのパンクな若者が当たり前のように、車椅子を支えてバスの中に老人を乗せた。あとからつづく乗客も、ごく当たり前の光景として乗り込んでいった。

 障害者を助ける。手をかす。当たり前の事として日常に浸透しているのだ。
 つまり、健常者も障害者も同じこととして生活していることが根付いているのだ。
 困っている人、障害がある人にはてをかす。助ける。これは歯を磨くように当たり前のことなのである。
そして障害者は「憐れまれたり」「自分の姿を見て涙を流されたり」「同情」されるのは決して嬉しいことではないのである。
 健常者と同じように普通に生活して、支障があったら手を貸してもらう。気持ちよくありがとうという。それで良いのだと思う。