飛翔

日々の随想です

命の尊さ


 両親が年を取ってからひょっこり生まれたのが私だった。病弱な母の口癖は「お母さん、幾つまで生きられるかしら?」だった。それを聞くたびに私は恐怖に引きつった。母が今にも死んでしまいそうで怖かった。
 友だちの若いお母さんがうらやましかったが、その一方で、慎ましく凛とし、慈母観音のようなやさしい母を誇らしく思うこともあった。そんな母は行事を大切にしていた。お彼岸にはぼた餅を作り、雛の節句にはお雛様を飾り、子どもの友人を招いてひな祭りを開いてくれた。行事のあるたびに、手料理を作り、美しい花を活け、家族で大切な時間を過ごしてきた。写真が好きな父は家族写真を写真館でよく撮った。母は記念日を省略してはいけないとも言っていた。それは自分の親の記念日や誕生日を祝うこともなく亡くなってしまい、終生悔いることになったからだとか。

 人は命の砂時計がさらさらと落ちていく様子を知らない。だから、あとで、あとでと後回しにすることが多い。砂が落ちてしまってもう落ちる砂がなくなってはじめて悔いるのだ。しかし、悔いても、もうそれは取り返しがつかない。私も親に死なれて初めて己の親不孝を悔いた。

  私ごとになるが、八年前、入浴中にくも膜下出血になり、浴槽に沈んでいるところを発見され救急車で運ばれ手術。後遺症もなく今に至る。それ以来、死から生を考えるようになった。人の命の砂時計はさらさらと落ちているのである。富めるものにも、貧しきものにも、等しく死はやってくる。

 今、いじめ問題で子供たちが大切な命を自ら散らしている。誰にも相談できず、逝ってしまうことを決断したことは無念でならない。親や、学校、教師、友達、社会といじめについては真剣に向き合って今こそなくすための努力や議論、問題点を考えようではないか。
 また同時に命について見つめることも大切である。

 八年前のあの日。死の淵をさまよって、この世に帰還できた日の空の青さを忘れることができない。
 生きとし生けるもの。ものみなすべて尊い。この世に命を受けて誕生した命の喜びを感謝しこの「生」を全うしようではないか。
 あなたも君も、私も動物も植物も皆ともに生きているのだ。
 「命」を大切にし、「生」を全うするために意義ある日日を送ろうではないか!