飛翔

日々の随想です

差し出された一本の杖


7年前に、入浴中にくも膜下出血になり、浴槽に沈んでいたところを発見され緊急手術を受けた私は、幸いにも後遺症もなく、元気に全快した。
 死の床から生へ帰還した者は人生観が変わる。それまでは生から死を考えていたが、死は案外遠いものでなく、明日にでも訪れるものだという実感がひしひしとするものだ。
 そうすると日常のささやかな営みがどれだけ素晴らしく、喜びに満ちたものだったかと気がつくようになる。
 朝、目が覚める。手が動く、目が見える。歩ける。そんなことがこんなにもありがたく、嬉しく喜びに満ちたものだったかと感謝の念がこみあげてくる。
 人間は見てしゃべって、ものを食べて、歩いて、走ってはあたりまえのこととして生きている。しかし、指一本怪我してみると、その一本が使えなくなるとどれだけ不自由なのかを初めて知る。あたりまえのことに感謝の念を持つことは少ない。なぜなら、あたりまえのことだからだ。
 右足をねんざしてギプスをしていたことがあった。
 病院から松葉杖を貸してもらったが、杖をつかずに足をひきずって病室まで歩こうとした。そのとき、一本の杖を差し出された。見るとその人も足が悪いようだった。
 僕はここに座っているから杖を貸してあげるから使いなさいと差し出された。
 病院には元気な人も一杯歩いていたが、足が悪い人に杖を差し出されるとは夢にも思わない出来事だった。
 そこへ看護師さんが車椅子を持ってきてくれたのでそれに乗って移動した。
 杖をさしだしてくれた人に丁寧にお礼を言って深々と頭をさげた。
 元気な人には不自由な人の状態はわからないのだ。悪意はなくてもである。
 しかし、同じ不自由さの人には身を持って理解できる。だから自分の不自由さをさておいても、手を差し伸べようとする。
 足を捻挫してみて知ったのは、車椅子を利用する人の気持ちを理解できない状態が多いことだった。今でこそバリアフリーが謳われるようになったが、まだまだ行き渡っていない。
 生きていくのは大変なことが多いが、ささやかなところに喜びがあることを知っていたいものだ。そして辛い思いをしている人がいることも。