飛翔

日々の随想です

家族の歌

 今日は気温がぐんぐん上昇してあたたか一日となった。日差しも明るく、春到来を思わせた。
 ヘアスタイルも春らしくしたいと美容院へカットしてもらいに出かけた。ボブにしてちょっぴり愛らしくなった(?)布団を干したまま名古屋へ出てきたので、美容院からはどこへも寄らずにまっすぐ電車に乗って帰宅する予定だった。しかし三省堂で足が止まった。今は亡き河野裕子さんのご家族は四人とも歌人である。がん再発後の河野裕子さんを囲んでそのお亡くなりになる寸前までの344日を見つめた家族のエッセイとご本人も含めて全員の歌が載っている本『家族の歌』(産経出版)の前で足が止まった。これを買って電車に飛び乗った。

家族の歌 河野裕子の死を見つめた344日

家族の歌 河野裕子の死を見つめた344日

 歌人一家は夫(永田和宏)、妻(河野裕子)、長男(永田淳)、長女(永田紅)である。
 河野裕子さんが息を引き取るまでお互いの心のうちを詠み、エッセイに綴った63篇である。
 読了した今、その感想を書くには時間がかかりそうだ。生老病死にかかわることはそれがエッセイであれ、歌であれ、読後の感想はそう簡単に書けるものではない。
 多田富雄さんの『寡黙なる巨人』(集英社)の読後も体がふるえるような感慨をおぼえた。
 特に私自身も7年前、くも膜下出血で大手術を経験した身。術後体のあちこちに管をつながれ、人工呼吸器でかろうじて息をしていた体験をしたものにとっては、読みながら当時の身動きできない、呼吸が苦しいことなどが思い出されて息ができないほどの読後感だった。
 死への恐怖、痛みへのおののきは言葉では言い尽くせないものがある。
 河野裕子さんの歌の背後にある心の奥を想像すると、とてもひとごとでなく、身につまされて、声も出ない。そして見守るしかできないご家族の心のうちが歌に詠まれている、それは病人である裕子さん自身も読むのであるから、歌が家族全員の生の声そのままなのである。
 ドキュメントでもある本書は歌人一家でなければ生まれない稀有なものとなった。、歌が救いであり、憩う場でもあり、心の吐露でもあり、慰めであり、遺言であり、家族の絆であり、最後の最期を飾るものであったことは、静かで気高い感動をよぶものとなった。
河野裕子さんは最後の最期まで歌を詠んでお亡くなりになったことはただただお見事と敬服するのみ。
 読後、心のおくがきゅーっと痛く苦しく悲しくなった。今はこれしかかけない。