飛翔

日々の随想です

珈琲を詠う

 
 一日に数杯のコーヒーを飲む。字面で言えば「コーヒー」というとアメリカンコーヒーのようなイメージがする。「珈琲」と書くと豆からゆっくりと挽いてネルでこしたドリップの味。豊かな香りまで文字から漂ってきそうだ。「コーヒー」「珈琲」どちらにしてもそこから先ず頭に浮かぶのは「苦味」だろう。この珈琲の「苦味」を絶妙に詠った歌人がいる。
・ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし寺山修司『血と麦』)
 東北出身の寺山修司にとって訛りは「方言かなし」と詠んだ時もあり、ふるさとの訛りが自分のアイデンティティーの証として愛する一方、都会人との差を感じさせ愛憎をわかつものでもあった。
それを同郷の友がまるで都会人になりきったように、訛りをわすれてしまったかのような様子はなんとも名状しがたい感情が込み上げてきたのだろう。それを珈琲の「苦味」と重ねたところがこの歌人の才のきらめくところだ。
 先日神戸へ行ったとき寄ったのが「神戸 にしむら珈琲店」。1974年に日本発の会員制喫茶店として開店した「特別な」にしむら。各界著名人など多くが会員だったが、’95年の阪神大震災を期に一般に開放。




 おいしい珈琲とケーキ、アンティークに囲まれた雰囲気でまるでウイーンのカフェのようだった。ウイーンやフランスなどではカフェ文化がはやり、カフェで談論風発したり、ゆったりと新聞を読み、原稿を書き、思索にふける場所でもある。日本ではあまり長居をすると何杯目かのお水のおかわりを持ってくるウエイトレス、ウエイターの目が気になる。東京で早朝の喫茶店へ行ってびっくりした。サラリーマンの多くがノートやパソコン、辞書を開いて喫茶店で勉強に余念がない風景に出会った。家庭では勉強できないのか、早朝のいっぱいのコーヒーでしゃっきりとさせて、出勤前の英語の自学自習だ。企業によっては英語の試験結果により昇進や海外転勤がかかっているのかもしれない。サラリーマン諸氏の涙ぐましい努力には頭が下がる。