飛翔

日々の随想です

追悼 黒岩比佐子さんを偲んで

 明治・大正期のジャーナリズムや世相を生き生きと描いたノンフィクション作家の黒岩比佐子(くろいわ・ひさこ)さんが17日午後1時37分、膵臓(すいぞう)がんのため死去した。52歳。告別式は19日午前10時30分、東京都文京区小石川3の7の4真珠院。喪主は弟、清水章(あきら)さん。
東京都生まれ。フリーの編集者などを経てデビュー。2004年に評伝「『食道楽』の人 村井弦斎」でサントリー学芸賞、「編集者国木田独歩の時代」で08年に角川財団学芸賞を受けた。古書店に通って資料を集め、細部を綿密に描く手腕に定評があった。
 09年暮れにがんが見つかったが、治療を受けながら執筆、先月、「パンとペン 社会主義者堺利彦と『売文社』の闘い」を刊行したばかりだった。(読売新聞より)
 ここに謹んで哀悼の意を捧げると共に、黒岩比佐子さんを偲んで見たいと思います。
 
2010年10月16日『パンとペン』刊行記念講演会を終えてほっとにこやかな笑みがこぼれた在りし日の黒岩比佐子さん。

黒岩比佐子さんは東海地方に大きな購読数を誇る中日新聞に2007年12月から2008年2月までの間、連載を寄稿していたことがある。それは連載「味な提言」である。愛知県豊橋市出身で明治時代の作家村井弦斎についての10回連載であった。東海地方には、そのお名前は広く知られ、愛読者は多かった。私もその一人だった。
 私はほとんどの作品を読んできた。しかし、膨大な資料をもとにした作品の書評を書くのは難しかった。あまりにも完璧な作品の読後をつたない感想や、読み込み不足の書評を書いては申しわけないと思ったが、感動がそれを上回った。三回読み直して書評を書いたが、まだまだ読みが不足していたことはいなめない。
しかし、自分が書いたものへの反響は物書きならどんなものでも知りたいと思うもの。それがたとえ、どんな厳しい評価でも、そしてたとえどんなに、つたない感想でも知りたいものだ。私は読みっぱなしにしておくことはできないと思った。どんなに下手でも感想は書こうと思った。それが、著者への、黒岩さんの渾身の作品への感謝の気持ちの表れであるとおもうからだ。

 ブログ「古書の森日記」を愛読し、お人柄の一端に触れ日々大いなる刺激と楽しみを頂いて今日に至る。
 ブログには闘病記が書き込まれるようになり、身につまされ、読んではいけないような思いにかられることもあった。病と闘いながら全身全霊で『パンとペン』を上梓され、その刊行記念講演会が神保町で行われた。何が何でも駆けつけようと申し込んだのは言うまでもない。講演会までに『パンとペン』は何が何でも読みつくさねば黒岩さんに申し訳ないと思った。二回読み返し、付箋だらけの著書を持って駆けつけた。
 静かな佇まいの中、明るくゆったりと『パンとペン』を語る黒岩さんは、ただの一度たりとも休むことなく、そばにあった水を飲むこともなく語りつくされた。最後に感無量となった黒岩さんは涙ぐまれた。病と闘いながら最後まで書きつくされた万感が胸に迫られたのだろう。
 講演会に出席された多くの方の目にも涙があった。
 グレーのスーツにピンクのブラウス姿がすがすがしく、美しかった。お若い容姿に理知美が輝いて神々しくさえあった。会場を包む温かい雰囲気を忘れることが出来ない。会場の全員が黒岩さんを静かにたたえ、感動している空気が会場をえもいわれぬやさしで包んでいた。
 講演会後、あれよあれよというまに、黒岩さんは病の床につかれ、重篤となられた。
 お人柄がしのばれるように、よき友人、同期の方々に恵まれた黒岩さんは、ブログ日記を書くことが出来なくとも代筆してくださる方によって逐一、日々のことをお知らせくださって、黒岩さんが天に召されるまでを私たちは知ることが出来た。
 黒岩さんの過ぎこし方が偲ばれるご友人たちで、黒岩さんもお幸せでいらっしゃったと思う。
 私が住むこんな地方のひなびた地域の書店にも『パンとペン』は並んでいることが嬉しい。多くの読者に支えられている中日新聞に連載をしてこられた黒岩さんを偲んで当地でもその死を惜しむ声は多い。
 私も涙を抑えることができないほど泣いたが、黒岩さんが遺していかれた多くの作品はこれからも何代にも渡って読み継がれていくことを思うと心が晴れる。
 黒岩さん!素晴らしい作品をありがとうございました。
 ゆっくりお休みになって天国でまた健筆を奮ってください。
 黒岩さん、ありがとう。さようなら。
 黒岩比佐子さんの偉業を讃え、謹んで哀悼の意を捧げます。
  ろこ