飛翔

日々の随想です

どっきり花嫁の記

どっきり花嫁の記

どっきり花嫁の記

与謝野晶子の次男秀氏に嫁いだ道子が、結婚後から晶子の晩年までの約七年ほどの想い出を綴ったものである。
 序として堀口大學氏が
「ありがたい本が出たものである。おかげで初めて与謝野晶子の全貌が知られることになった。私なぞ十七の時からお弟子の末に加えていただき、鉄幹晶子両先生のことなら一応は存じあげているように思って来たが、それこそとんだ思い上がりで、実はほとんど何も知らなかったのだとこの本を読んで思い知った次第である」
とあることから本書の内容が推し量ることができよう。
 11人の子供を育てた晶子は衣服の着回しや食べ物、やりくり、生活全般における創意工夫、子供のためには夜を徹して着物を縫い、お菓子を作る人であったという面は歌だけに生きた人という誤解からは完全に離反する人であった。それらの経験を嫁の道子に嫁姑という観点でなく優しく先輩として教え導く様子は実に微笑ましく温かい。
 また夫鉄幹の気質は
「夫は脈拍が40しか数えられない異常体質で、医者によれば、常人の質と狂人の質を並べた場合に一番端に位する常人。感情の変わりやすい事腹立たち易かったことは人の及ばぬ所だった。刺激をして興奮させぬように平静でいて貰うため門人や、子供達との間を常にわくわくと取りなし廻っていた」とある。その例として風呂のボイラーが壊れたのを鉄幹に知られたらどんなに癇癪をおこすかしれないことを恐れて旅行へ連れ出した話などは晶子が夫や周囲に腐心していたかが伺えて凄まじいばかりだ。

 また相思相愛で結ばれた歌人夫婦の結婚生活がどんなに幸せであろうかという道子の問いに「人生はそんなになまやさしいものではありません。夕食の支度をしながら歌を作ったりしました」「他のあらゆる苦と共に私の忍んできた苦の一つは夫の仕事上の競争者の地位を持っていることであった。」と吐露している。
また「鉄幹が気まぐれに他の女流の作を褒め上げたり、昔の和泉式部を古今第一の女流歌人であると祭あげて自ら悦に入る人であった」とも述べている。しかし、これらは夫の心の病とし、愚をなすでなく、最も大きな忍苦にたえる晶子であったことを婦人公論誌上に書くに及んでは、鉄幹の気質や夫婦同業であることの苦衷がにじんでいて人間与謝野晶子の側面を知ることが出来る。一方、「夫のしている学問上の仕事は金に換算されないだけだと思って、夫を尊敬し不平など持ったことがない」とも述べている。
また夫亡き後の宗教観、女性の忍苦の果ての悟りについても述べている辺りは晩年の晶子の胸中を知ることができ圧巻。
過去の悲しみも目前へ近づく死にも抗わず、平静であり得る日は何がもたらしたものか、それは宗教でも何でもない。私程の年齢の女性であればほとんど誰もが共通にあってきた二三十年の忍苦の訓練を経てきたからである。男性には参禅して冷たい床の上に座して黙想して片端が掴めるか掴めないか知れぬ悟りを、女性は無知な者といえども私の年になれば皆持つのである。女性には参禅の必要がない。」
なんと経験に裏打ちされたあっぱれな強い女の矜持であろうか。

最後に著者の言葉
「義母は右とか左とかいう思想、主義、または、一つの既成宗教にさえかたよることなく、人間として、女性として、母として生き抜いた、誠実、清潔さなど、私どもが学ぶべきものはあまりに多いと感じるのです」はまさに言い得て妙。
7年間与謝野晶子に信頼され愛され、尽くしてきた道子さんが著した本書は与謝野晶子の全貌を知り得る温みと肉声が聞こえる貴重な書であった。