飛翔

日々の随想です

サンマのけむり

どの家も食卓から秋がやってくる。

サンマがじゅ〜じゅ〜焼ける様子はみるからにおいしそうだ。
このじゅ〜じゅ〜言っているサンマがお皿の上にのった瞬間食べないといけない。待ってましたとばかりにかぶりつくのだ。焼くものと食べるものがあうんの呼吸にならないといけない。
 この最たる表現を一冊の本の中で見つけた。
 それは村松友視著『幸田文のマッチ箱』(河出書房新社)の一節である。

幸田文のマッチ箱
村松 友視
河出書房新社

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内容はと言うと、作者が幸田文との付き合いの中から育んできた敬愛の情を根底に、作品を読み解き、人となりをさぐっていく「幸田文の旅」である。
この本の最大の魅力は何と言っても村松でなければ知りようのない幸田文の逸話にある。
数あるエピソードの中で「しらす」が白眉。
しらす漁解禁の日、村松が故郷の清水から幸田家に届けた日のこと:
「玄関で幸田は小皿と醤油さしをもって醤油を一滴たらすと右手指ですばやく食べ「おいしい!」と言い、ぺこりと頭をさげた。
食べて見せ、ほめ言葉を与えてから私を帰さねば気がすまない・・幸田文さんらしいと思った。」

これは父露伴がかつて焼きたてのさばを何はさておいてもすぐさま食べた昔話が底に流れている。一生懸命焼いた者とそれをすぐ食べるもの。それは「台所する者のひとつの喜びだったんでしょうね。それが、季節というものであり、旨さというものじゃないでしょうかね」と幸田は述懐する。
つまりしらすの件は父露伴から連綿と流れている「心意気」に通じているのだ。

どうだろう!おもわずうなってしまう文である。いや文にではない。
その心意気にである。
 サンマを焼くたびに幸田文幸田露伴のこの心意気を思い出すのである.
 秋刀魚焼く匂の底へ日は落ちぬ   (加藤楸邨
 秋刀魚焼いて泣きごとなどは吐くまじよ  (鈴木真砂女
 秋刀魚焼く煙の中の妻を見に (山口誓子