飛翔

日々の随想です

「けっして会わない、声も聞かない」という約束

レターズ―ミセスXとの友情
ダーク ボガード
弓立社

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 本書は、「けっして会わない、声も聞かない」という約束の元、未知の女性にあてて書いた書簡である。
英国南部の美しい屋敷に住む映画スター。その記事を一婦人が美容院で目にする。よくある話だ。しかし、婦人は屋敷の写真に釘付けとなる。それはかつての自分の家だったからである。こんな偶然の出来事がきっかけでこの婦人と映画スターとの文通は、婦人が死を迎えるまでの5年間続いた。映画スターの名はダーク・ボガード。文通相手の女性はミセスX。

 ダーク・ボガードは、『ベニスに死す』『愛の嵐』などで知られる俳優である。彼は1921年英国生まれ。社会的地位が高く教養を自然に身につけた階層に育った。一方ミセスXはスターであるボガードを全く知らない映画おんち。高い教養を身につけた階層の人間であったらしい。またアメリカでは大學講師であったようだ。
 さて、この奇妙な二人の文通が女性の死が訪れるまで続いた秘密は何であろうか?
 第一はミセスXがボガードを知らなかったこと。したがってボガードは素の人間でいられたこと。第二は高い教養を備えた女性であり、時にはボガードを導いてくれたからである。第三は英国で同じ階層の人間であったため、よけいな説明も、遠慮もいらず、理解しあえたことなどである。そして何よりも大きな要因は、共通の屋敷を語り合える喜びにあった。
 手紙の中で、ボガードは屋敷周りの情景を詩的な筆致で綴り、ビビアンリーとの交流やアメリカ人への悪口など心の中をすっかり開け放って一人の女性に手紙を出す喜びに満ちている。英国人特有の物の考え方を映し出す箇所は実に面白い。
また女王陛下に招かれた日の極秘エピソード:
「ぼくたちはケネディー事件について話し、お悔やみの電報を何と打てばよいかを話した。その後、女王は窓際に立って片方の靴を脱いで楽にした
」とある。
 また『ベニスに死す』の役がボガードに割り振られる瞬間の手紙は圧巻。
ビスコンティーがランチの最中、金と黒の紙で包装された物を投げてよこした。中身はペンギン版『ベニスに死す』。僕がアッシェンバッハをやる?!彼が言うのは僕は「若すぎない」からだという。その論拠をトーマス・マンがアッシェンバッハの下敷きにしたのはグスタフ・マーラーで、ベニスからミュンヘンへの列車の中でマーラーは実際化粧をし、「究極の美を見た」ことで絶望しきっていた、彼に残されたのは死ぬことだけだった。そういう人物だから僕に役をまわしたという。」「ビスコンティーはマーラーのレコードを買えるだけ買って、気が狂うまで聞け!と言った
 この他、バージニア・ウルフを幼い頃見た思い出は胸を打つ。「くたびれたカーディガンを着、くたっとした麦藁帽をかぶっていて、ぼくらはみな、あの人は魔女だと思った。彼女が投身自殺したとき、カーディガンのポケットに石を詰めて重石にし、川に沈んだという。僕は奇妙に心打たれました。二つのポケットいっぱいの石…何という哀しい絶望でしょう」
このようにうち解け、様々なことを綴った手紙の何と魅力的なことか。それは相手のミセスXの手紙も素晴らしかったからに違いない。ボガードは「あなたの手紙は最後にとっておき、誰にも邪魔されない静かな所へ持っていって、喜びに顔を輝かせながら読む]とある。
ボガードは詩や戯曲も書き、成功したベストセラー作家であることは日本ではあまり知られていない。作家ボガードの誕生はミセスXの励ましの賜物であったのだ。
 未知の二人が綴る「生涯の美のすべて」と言える「手紙」ここにあり!