飛翔

日々の随想です

タタド

タタド

タタド

小池昌代は詩人である。この人の作品は『詩と生活』 (思潮社)、『屋上への誘惑』(岩波書店)『小池昌代詩集』(思潮社) 『井戸の底に落ちた星』(みすず書房)などを読んできた。
『永遠に来ないバス』で高見順賞、『屋上への誘惑』で講談社エッセイ賞、『タタド』で川端康成文学賞を受賞。
小池さんは“Mature”(成熟した)な女(ひと)である。文もしかり。
飲み物でいうならドライシェリーのような味。きりっとして決してウエットでない。スカートをひらひらさせることなくパンツスーツをかっちりとはきこなした知的な文が小気味良い。
今回読んだ『タタド』は表題の「タタド」ほか、「波を待って」「45文字」の三篇からなっている短編集。

表題の『タタド』は中年を過ぎた夫婦の海辺の別荘にそれぞれの男友達、女友達が泊りがけで集まって過ごす週末。
筋書きらしい筋もないままの時の流れ。
海辺を散策する夫婦と男。そこへ夫の友達の女優が加わる。夕食を囲み、ワインを飲む。庭に植わっている夏みかんがぼたっと落ちる。この夏みかん、すっぱさは空前絶後の味。
この夏みかんはこの物語の行く末を暗示するようで小道具のような役割でありながら大きな伏線をかもしている。
それはアダムとイブの「禁断の木の実」を思わせる。
男友達と女友達はこのとんでもなくすっぱい夏みかんを食べる。
黄色く輝く実をむさぼる様子はこの筋書きのないような物語に鮮烈なインパクトをあたえる。
それは梶井基次郎の「檸檬」の一節にある「夏の陽に/身を焦がした/樹液はやがて/黄色い爆弾となる」を彷彿とする。
この4人は朝を迎え「黄色い爆弾」がはじける時をむかえるのだ。
「禁断の木の実」を思わせる「黄色い爆弾」がはじけるときとは何だろう?
それは読者へのお楽しみとしておきましょう。
まるでフランス映画を見ているような物語。

あとの二編も味わい深い。
特に二編目の「波を待って」
たそがれを迎えようとする者の残照は朝日のそれとは異なり、鈍いが一瞬の輝きを放つ。
それを詩人らしく絶妙の表現をしていて舌を巻いた。
五十半ばの夫の背中に日焼け止めのクリームを塗ろうとする主人公は夫の背中のまぶしいほどの弾力にたじろぐ。
それは蛤の力を思い出していた。つい最近、潮汁をつくったことがあったのだ。火にかけた鍋の中で、蛤たちが、次々と口を開くのを亜子は待っていたいよいよというとき、おたまで鍋のなかをかきまわそうとすると、ちょうど、ひとつがぱくりと口をあけ、亜子がぼんやりと握っていたおたまを、ぐいと押しやった。そこ、どいてくれよと、いうように。亜子は驚き、その柔らかく決然とした拒絶の力に、自分の命が押し返されたように思ったそれは驚くほど官能的な触感だった。

夫の背中には、あの貝と同じ弾力があった。
もっとも、
貝が何かを押しのけてあくとき、それは貝の死ぬときである。だがその死は、亜子の目にはほとんど生の絶頂に見える。生きている貝の生は、貝が開く直前、波のように盛り上がり、沸騰点に達する。そしてついに、開かれた死のなかへ、烈しくおだやかになだれ込んでいくのだ.夫の背に見えたものも、死を内包した、生の絶頂の輝きなのかもしれない

小池昌代の作品は物語の筋を追うよりもその言葉がかもす一瞬の光芒にある。
その一つの言葉のために筋書きがあるのではないかと思うほどである。
食前のドライシェリーが食欲をかきたてメインディッシュへと誘い込むように一つの言葉が脳髄を刺激し、胃の腑を満たしていく。

どの短編も小粋である。