飛翔

日々の随想です

敬愛するK,Hさんの快復を祈りて


毎日のほほんと無為に過ごしていることの幸せと不幸の背中合わせを感じる。


 人は一刻一秒を無駄にできないと感じるときは、迫り来るものの影を感じるときだ。
数年前、生死の境をさまよって生還し、退院した日の空の色と風のそよぎを忘れることができない。


それまでは空が青くても、風がどんな風に頬をそよいでいくかにも、さしたる感興を覚えなかった。
しかし、死の淵をさまよった人間には、息を吹き返した日の青い空はまるで生まれて初めてみる空の青のように思えるのだ。
その感覚は、もし生まれたばかりの赤ん坊が言葉をしゃべれるとしたなら、
「これが空なのね。ああ、天は何と高く、空は何と青いものなのだろう」
としゃべったことだろう。


それまで周りで起きているさまざまなことや大自然の素晴らしさを見ているようで見ていない、感じているようで感じていないできたのだと思った。
何と鈍感に無感覚に、無感動に過ごしてきたのだろう。
痛みに耐えてじっと病室にいたとき、朝がくるのを待ち焦がれた。
夜の闇は奈落である。
病室のカーテン越しに朝陽がさすとき、ほっと生きていることを思い出すのである。
元気になれたならもう何もいらないと思ったものだ。


今、そんな日があったことも忘れて無為に過ごしている自分を情けなく思う。今、病と戦っている人に想いを馳せる。
 この時期は、あらゆるものが芽吹きだし、花芽をつけ、やがて花盛りとなる。生ある喜びを歌う夜明け前のようだ。
それだけに病める者にとっては限りなき生への憧憬にかられる時期(とき)かもしれない。自然の無心の前にひれ伏す思いだ。


 中国の白楽天の歌に
「琴詩酒(きんししゅ)の伴(とも)はみなわれを抛(なげう)ち雪月花の時 もっとも君を憶(おも)う」とある。

 つまり、世俗的な遊びの友は、いざというとき私を離れてしまったが、孤独の底で、雪月花、つまり四季の自然のうちに心を通わせるとき、愁人の君の心が最も身近に感じられるのである。


「君看よや 双眼の色 語らざれば 憂いなきに似たり」

さあ、私の二つの眸を見て下さい。 何一つ愁うることなどないように見える。私は誰にも断腸の想いなど語りはしない。語り尽くせないほど愁いは深いからだ。
しかし、同じく深い愁いを抱く者が看れば、私の心は分かるはず。
目と目があうだけで一語も交えずともすでに志は通じている。
愁いを抱くものならでは、この想いを同じくすることは出来ない。だから君よ、私の双眸の色をみてほしい。




 きっと病にある人、介護している人はそう思っていることだろう。
 見舞いの言葉をかけるより、そっと心の中で快復を祈りたい。