庭の水仙の花が咲いてその気品のある香りがあたりをすがやかにしている。
・水仙の花のみだれや藪屋しき (維然)
荒れ果てた薮(やぶ)。そこに一群の水仙が群落を作っている。ここはその昔誰かの屋敷跡で、この水仙花はその主人が楽しんだ花なのだろう。
上の歌は広瀬維然(素牛)(ひろせ いぜん/そぎゅう)の作。
本名広瀬源之丞。素牛とも。美濃蕉門の門人。貞亨5年夏、芭蕉が『笈の小文』で美濃を通過したときに入門。岐阜県の関市に弁慶庵を作って住んでいた。
写真は上の歌のように誰かの屋敷跡に咲く水仙ではなくわが家の庭に咲いた水仙。いつか我が家も、皆朽ちてしまってもきっと水仙だけは咲き続けることだろう。
The Daffodild
William Wordsworth
I wander'd lonely as a cloud
That floats on high o'er vales and hills,
When all at once I saw a crowd,
A host of golden daffodills,
Beside the lake, beneath the trees
Fluttering and dancing in the breeze.
水仙
谷や丘の上たかく浮かぶ雲のように
私はひとりさまよいあるいていた
そのときふと目にしたのは
金色の水仙の大群が
湖のほとり、木立の下で
そよ風にひるがえりおどるさま。
と詩ったのはワーズワースだった。
水仙の花の高貴な香りは清らかな世界にたゆたわせてくれる。
水仙の花というと三島由紀夫の「唯識説」を思い出す。それはこうだ:
世の中のあらゆる存在は、識すなわち心のはたらきによって表された仮の存在にすぎない。しかし、、それだけなら、単なる虚無になってしまう。一茎の水仙は、目で見、手で触れることによって存在する。だが眠っている間、人は枕もとの花瓶に活けた水仙の花を、夜もすがら一刹那一刹那に、その存在を確証しつづけることができるだろうか?人間の意識がことごとく眠っても、一茎の水仙とそれをめぐる世界は存在するのだろうか?
『暁の寺』では三島由紀夫は「世界は存在しなければならない」と何度も書いている。世界がすべての現象としての影にすぎず、認識の投影に他ならなかったら、世界は無であり存在しない。「しかし、世界は存在しなければならないのだ!」と繰り返す。
難しい陽明学をもとにした考え方なのだろうか?こんなことを考えながら日々を過ごしていた三島由紀夫という人物は早くから五衰の人となってしまっていたに違いない。
不可解。
水仙の花というと思い出すのはワーズワースと三島由紀夫の「唯識説」。
明日も今日も、あさっても単純に生きていくであろう私には虚無も実存もない。