飛翔

日々の随想です

文学と悪


バタイユは文学にとって至高のものとは・・という観点においてそれは悪の極限を掘り当てようとすることではないかと論じている。

エミリ・ブロンテ、ボードレール、 ミシュレ、 ウイリアム・ブレイク、 サド、 プルースト、 カフカ、 ジュネという作家8人を論じていて面白い。

中でもエミリ・ブロンテの描く「嵐が丘」を死こそ愛欲の真理であり、また愛欲こそ死の真理であると論ずる命題を解明しようとした辺りは興味深いところであった。
バタイユはエロチスムとは死を賭するまでの生の賛歌ではないだろうかと先ずは喝破する。
彼は論を進めるにしたがい、こうも言う。
性欲発情の根底には自我の孤立性の否定が横たわっている。
つまり自我が自己の外にはみ出して自己を超出して、存在の孤独が消滅する抱擁の中に没入するときはじめて飽和感を味わうことが出来る。清純な恋の場合も体と体が触れ合う肉欲の場合にも、存在の崩壊と死とが透けて見えてくるほどになると、その強烈さはこの上もなく大きなものとなる。

ブロンテはこの究極の真理を感じ取り崇高なまでに描いて見せたのだと評す。
嵐が丘』の女主人公キャサリンと相手のヒースクリフの子供のときの野性的な、社会的な因襲や礼儀の掟に束縛されない、目的意識も持たない生そのものの条件だけしかなかった折りの恋の荒々しい純粋さを「悪」の一つの原型のようにバタイユは論じている。

ブロンテの究極の真理はわかるとして、サド、ボードレールと進むに連れて文学にとって至高のものとは・・と悪の極限を掘り当てようとする論はなかなか消化するのが難しく、こなれない論を反芻しての繰り返しとなった。

もうこうなると澁澤龍彦におでましいただかないと到底こなれるものではない。