飛翔

日々の随想です

『私とは何か 「個人」から「分人」へ』平野啓一郎著

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 まずはじめに私事になるが、友人が私のブログや書いた文章を読んで、
 「いつも会っているあなたと、書き言葉のあなたとでは別人みたい。書き言葉の方がきっと本当のあなたね」
 と言われて、戸惑った。
 友人と会う時はお茶らけて、笑わせてばかりいるからだろう。
 子供のころ、家では末っ子の甘えん坊で、母に依存してばかりの何もできないみそっかすと言われてきた。
 それが父兄会から帰ってきた母が驚いたように「学校ではしっかりして、クラスのリーダー格だって言われたけれど本当?」
 と信じられない風だった。
 しかし、どれも私であり、多重人格でもない。
 いったい私とは何か?
 そんな疑問に答えがあった。
 それが本書で言う「分人(ぶんじん)」という概念であり、本書のタイトルになっている『私とは何か 「個人」から「分人」へ』である。

 著者はたった一つの「本当の自分」など存在しないという。
 裏返していうならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。
 つまり、友達、恋人、家族、仕事の上司・部下など、私たちがかかわる誰に対しても同じ「自分」を見せているわけではない。
 分けられないという意味の「Individual=個人」と対比させ、「分人(dividual)」という新しい単位を導入。

 分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。
 恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、、、それらは必ずしも同じではない。

 「分人主義」の考え方で言えば、たとえ1つの「分人」を否定され傷ついたとしても、それは、その人すべてが否定されたわけではない。他にも「分人」は複数存在し、その「分人」を足場にして生きていけば良い。

 この「分人」という考え方をすると「死」についても目からうろこが落ちる。
 死者はそれまでかかわったすべての「分人」がなくなることであるが、遺された人には、死者と関わった「分人」が存在する。
 その「分人」と死者とは永遠につながっているのだ。
 こう考えると、遺された者にとって、「死」と「死者」に対する思いは変わってくる。
 自分の中の「分人」と死者は永遠につながっているのであるから。その「分人」を足場に生きていけるのだ。

 この他にも、引きこもりについて、自己肯定の考え方をいろいろと提唱している。
 1つ1つ丁寧に例をあげて、わかりやすい文章なので、読みながら、思わず膝を打って共感。
 「分人主義」という考えは、対人関係に悩みを抱えている人の心を楽にしてくれ、もやもやしていた心をすっきりと晴れさせてくれる。
  生きるのが楽になる。
  冒頭で言ったが、私が関わる人ごとに態度や様子が違うのは、私がお調子者なのでもなく、多重人格でもない。その人ごとに対する自分の中の分人を生きているのだと知ると、納得がいき、すっきりとした。
 お子さんが、引きこもりだったり、定職につかないというお悩みの方、自分は何者かと悩む方、ぜひご一読を。
 哲学書でもなく、心理学の手引きでもない。新しい考え方に、目からうろこが落ちる書だ。 目からうろこの人間観を、あなたもぜひ参考に。
※著者紹介

平野啓一郎
 1975年愛知県生まれ。2歳から18歳までの子供時代を、福岡県北九州市で過ごし、高校時代には、すでに長編小説の執筆をおこなっていた。京都大学法学部入学後、在学中の1998年に、中編小説『日蝕』を文芸誌「新潮」に投稿。平野啓一郎は「三島由紀夫の再来」と謳われ鮮烈なデビューを飾り、翌年、当時としては最年少となる23歳で、芥川賞を受賞。