飛翔

日々の随想です

It's never too late to learn

 
「俺に英語を教えてください」 
 四十代の男性が我が家に飛びこんできた。 外は晴れているのに白い長靴を履いている。
 頭は角刈り。俳優の緒形拳に似た風貌をしている。着ている白衣の胸に油のシミがワンポイントのようについている。門に横付けされた軽トラックには「○○ラーメン」と書かれてある。
 訪ねてきたのは、私が教えていた英語塾の父兄だった。
「塾はやめたので、もう英語は教えていないのですよ」
と言っても、聞く耳を持たない。どうしても教えてくれと引き下がらない。訳を聞くと生い立ちを語りだした。

 父親を早くに亡くした彼は、中学を卒業すると、ラーメンの屋台を引いて、母親と弟の生活を支えてきたという。それから三十年。ついに店を持ったという経歴の持ち主だった。
 結婚し一男二女の親になった。中学生の長女の英語の教科書を何気なく開いてみた。するとほとんど読めないことに驚いた。無我夢中で働いてきた月日を思い返すと、勉強らしいことは小学生時代から数えてわずかである。また一から勉強したい気持ちが湧き上がってきたという。
 その熱意に負けてアルファベットから教えることになった。
 数ヵ月後、どこで聞いてきたのか、「私も、俺も」と一から勉強したいという大人が増えてきた。
 三十代の工員。四十代後半の植木屋のおかみさん。還暦に近いパート勤務の女性であった。
 学びたい理由をそれぞれに聞くと、工員は、発注された海外からのメールや図面の文字が理解できないからだという。今さら、誰かに聞くのは恥ずかしいので、思い切って一から勉強しようと思ったという。
 植木屋のおかみさんは、いつの日か、外国人向けのゲストハウスを経営したいとのこと。
 パート勤務の女性は定年後に退職金で海外一人旅をしたいという理由だった。
いずれも英語の基礎がほとんど出来ていない人たちであったが、意気込みは真剣であった。

わが家の食堂が教室になった。
 生徒たちはそれぞれニックネームで呼び合うことにした。ラーメン屋は「サー君」植木屋のおかみさんは「サツキさん」工員は「コーちゃん」パート勤務の女性は「キンさん」
 毎回出す宿題は、一週間の間で、もっとも多く使った単語を和英辞典で調べてくるというものだ。サー君は「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」コーちゃんは「ねじ切り旋盤」サツキさんは「剪定」キンさんは「在庫」とバラエティーに富んでいる。
毎回、一人一個の単語として四人では四つの単語を覚えられる。幸い四人は職種が違うので異なったジャンルの単語を覚えられる。
六十歳近いキンさんは覚える端から忘れていくので、自信がなさそうだった。
するとほかの三人が助け舟を出す。休み時間に生徒同士が先生になって彼女に教え始めた。
教え始めると自分の復習になるのか、めきめき力がつくのだった。中学三年の教科書を終える頃には、全員一週間の出来事を英語でスピーチするまでになった。

 ある日、ラーメン屋の店に外人客が来た。カウンターに座った彼らは、このスープはどんな材料が入っているのだろうか?具の中の「なると」をつまみあげて、これは何だろうと言い合っている。
そこで店主のサー君は、ラーメンを作りながら、厨房の中から英語で答えた。
 びっくりしたのは外人でなく、店の中にいた全ての客だった。英語教室で学んだ英語力が、いかんなく発揮できた瞬間だった。

 こうして五年が過ぎた。
 ラーメン屋では、店を閉めたあと、辞書を片手に勉強をしている父親を見て、高校生の息子も、並んで勉強するようになった。
 コーちゃんは通信制の高校へ入学を決め、将来、工学系の大学に入りたいと夢を抱いている。
 サツキさんは、開業に向けて、おもてなし料理の腕をせっせと磨いている。
 キンさんは、この先も続けて勉強したいと希望している。
 四人共、自信に満ちた顔つきになり、輝いて見える。英語力も充分付いた。

 いよいよ明日は英語教室最後の日となる晩、私は入浴中にくも膜下出血になった。
 浴槽に沈んでいるのを夫が発見し、救急車で運ばれた。

 緊急手術は成功したが、様々な後遺症が案じられた。
 手足は動くが、記憶が飛び、言葉が出にくい状態になった。
 このまま言葉を失い、自分が誰かも、わからなくなるのだろうか?担当医は、一過性のもので、心配はありませんと言うが、不安でいっぱいになった。

そこで心理療法士の先生にカウンセリングしてもらうことになった。じっくりと話を聞いてもらう内、気持ちが落ち着いてきた。
 三週間後、無事退院でき、また我が家に生徒四人が集まった。彼らは私のために、リハビリ用カリキュラムを作ってくれた。それは、以前の授業を、また最初から私が教えるというものだった。
 脳にダメージを受けた私が外国語を教えるというのは大変なストレスだったが、リハビリとしては最適なものであった。
 みんなも、また復習ができると喜び、生徒も先生の私も一緒に学ぶことになった。
 短いスピーチの課題は先生である私にも課せられた。よどむことなくスピーチを終えて、お辞儀をすると、生徒全員から拍手がおきた。いつ入って来たのだろうか、夫が後ろに立っていて、涙をぬぐうのが見えた。

こうしてみんなの協力のおかげで、記憶や言葉を取り戻し、私の病気は完治した。
いよいよ英語教室最後の日がやってきた。最後を飾る言葉をこう締めくくることにした。
 「学ぶに遅すぎることなし」
 中年になっても、還暦を過ぎても、学びたいと思った時が実行の時である。昨日まで知らなかったことを今日知る喜びは、何ものにも代えがたいものがある。それはまさしく学ぶ喜びであり、生きる喜びにつながる。

 みんなが去った教室で、贈った言葉を噛みしめてみた。四人はそれぞれの道を見つけたが、さて、私は、これからどう生きていけば良いのだろう。
翌日、入院中にお世話になった心理療法士の先生を訪ねてみることにした。先生は、
 「学ぶ喜びは生きる喜びにつながるって、あなたも、生徒さんたちも実体験したわけでしょ。それを活かす時が到来したのよ。術後の不安を、カウンセリングで解消した体験は貴重です。その体験を無駄にしないためにも、心理療法士の勉強をしてみない?」
 と、学校案内の手引書を見せてくれた。くも膜下出血から生還した私が世の中の役に立つのなら、一から勉強してみようと思った。
 早速、学校に入学し、二十代の若者と机を並べて勉強する日々が過ぎていった。
 毎日が目新しいことの連続で、楽しくて気がつくと通学電車の中でハミングしていた。その一方、心を扱う学問の奥深さに、学んでも、学んでも底知れぬものを感じるのだった。
 卒業試験を受ける日がやってきた。試験は心理カウンセリングの様子をビデオで撮ったものを審査され、筆記試験を受ける。それらに加えて、卒業までの小テストの結果などの総合審査だ。
 分厚い教科書三冊を二十九回熟読し、先生に質問を浴びせ、ビデオ審査用のカウンセリングDVDを三十四枚撮った(平均は十枚)。
 試験の結果は合格。一番にはなれなかったけれど、二番で卒業となった。
 卒業の式辞で学長は、最高齢の私の努力を讚えてくれ、孫のような学生の刺激になり、クラスの活気の源となったと述べてくれた。
 父兄の席には見慣れた顔が四つあった。英語教室の生徒たちだ。かつての生徒は、いつのまにか私の父兄になり応援者になった。
 「先生、(学ぶに遅すぎることなし)を実践したね」
 ラーメン屋のサー君が、四人を代表してそう言った。

 卒業後は、病院で入院患者さんの不安や悩みを傾聴する「傾聴ボランテイア」が初仕事となった。
 そう。入院していた時、不安でいっぱいになり精神的にまいった私を助けてくれた、心理療法士になったのだ。

 学びたいという、ただそれだけの熱意に押されて始めた大人の英語教室。
 そこから四つの窓が開かれ、それぞれが自分の道をみつけ歩みを続けている。
 そこにもう一つ学ぶ喜びを見つけ窓を開いたのは私であった。

 卒業後も、四人は、クラス会と称して、我が家に集まってくる。
 修学旅行をしようと、計画している。
 もちろん、行き先は英語力をためす英語圏である。
 英語が通じなかったら再試験として次回の旅行に回すそうだ。
 四十代から六十代の中高年のご一行様は、まだまだ、青春まっただ中にいる。
「学ぶに遅すぎることなし」
 生涯、この言葉を掲げて進んでいきたいと思う四人と一人である。