飛翔

日々の随想です

フロイスの見た戦国日本

フロイスの見た戦国日本 (中公文庫)
川崎 桃太
中央公論新社

  ヨーロッパの十五、六世紀は大航海時代と呼ばれ、富と領土獲得を求め発見の世紀であった。
そんな時代に日本もヨーロッパ人により発見された。しかし、それは領土獲得でなく、布教の情熱に燃える宣教師たちであった。彼らは南蛮時代の伴天連ことキリスト教宣教師の集団であった。
ザビエル以来彼らは日本に骨をうずめる覚悟で渡来し、母国に書き送った日本に関する報告書は膨大な量であった。
そんな伴天連の中で、日本に十二年も過ごしたのは、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスだった。日本における布教の歴史、一般庶民、大名、武将、文化人との交流を彼は流麗な文章で全十二巻にも及ぶ『日本史』として記録した。その膨大な『日本史』の訳者でもある著者が一冊にまとめたものが本書である。
ポルトガル人宣教師フロイスは1563年(永禄六年)西九州の横瀬浦に上陸。三十一歳であった。
戦国末期の政情不安の中で、宣教師たちは困難に囲まれ、時には生命の危険すらあった。
九州から都入りを果たしたフロイスを待っていたのは、南蛮の文物に強い関心を寄せる信長であった.信長はふだん誰にも見せていない自慢の岐阜城を無条件でくまなくフロイスに見物させた。以後十八回にも及ぶ信長との交流はフロイスだけに許された関係であったことは、人好みの激しい信長にしては異例の処遇。
さて、その信長の人物像をフロイスは鋭い観察眼で描いておりこの武将を知るうえで貴重な資料となる。
『彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髯は少なくはなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的に修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自邸においてはきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念にしあげ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賤な家来とも親しく話をした』
また信長に招かれて安土城をつぶさに観察したフロイスの記述は天守閣を含め城の全貌を後世に伝えることができた貴重なものである。
次にフロイスが見た戦国武将の人物像をかいつまんで引いてみよう。
明智光秀の人物像は:
『裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが・・・(略)忍耐力に富み計略と策謀の達人であった』と手厳しい。
本能寺の変はまるで現場にいた目撃者のようにフロイスは迫真の記述を残している。

秀吉:
『彼は優秀な騎士であり、戦闘に熟練していたが気品に欠けていた。彼は身長が低く、醜悪な容貌の持ち主で、片手には六本の指があった。関白は極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺しており、抜け目なき策略家であった』と嫌悪感がにじみ出ている。
このほかフロイス高山右近や過酷な運命に弄ばれながら乱世を凛々しく生き抜いた日本女性(細川ガラシャ、将軍義輝の奥方、北の政所など)についても感動的な証言を残している。
また日欧建造物比較論も記述しており当時の家屋を知るうえでも貴重。

こうして六十五歳で病没するまでフロイスは『日本史』の完成に心血を注いだのだった。
フロイスの『日本史』がなぜ貴重な記述であるか?
それは日本人である場合、政治的配慮、因習などに影響され書きたいことが書けないことが多い。
その点、伴天連たちは公正で客観的な観察と判断、先入観にとらわれない素朴な目で見ることができたからといえよう。
十六世紀の日本の風俗、文化、芸術、政治、宗教をヨーロッパの知性が如何に見たか、外国人が見た最初の日本、日本人論として読むとき、それは趣き深い。